Ⅳ. 日本の仏教

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Ⅳ. 日本の仏教

Ⅳ.1 歴史

Ⅳ.1.1 前史

 日本の仏教を考察するには、仏教が伝来する前の状況を確認しておく必要があろう。というのは、新たに導入される宗教はそれ以前の文化状況、特に宗教的な基盤の上にそれと融合した状態でしか受け入れられないからである。
 仏教が導入される前の古墳時代の前期には、恐らく農業生産における共同体の祭祀として弥生時代以来の自然神信仰に基づく農業祭祀が行われるとともに、各地域の王(豪族)が亡くなった時に次に新王が立つ儀式として巨大な古墳を築造して先王の統治権能(王権)を継承する祭祀が行われたと考えられる。古墳時代中期(倭の五王の時代)になると、農業祭祀は同様に行われる一方、大王が各地の豪族を武力で制圧乃至圧倒するとともに、それらの豪族の子女を妃として縁戚関係を結ぶことで人的結合を形成し、かつ中国王朝と冊封関係を結ぶことによって自らの統治権能を主張して支配体制の正当性を確保していた。
 倭の五王による統治が崩壊すると、中央豪族の大伴氏が、大加羅(高霊)との交流がある北陸のオウド王を継体大王として迎え入れ、継体・大伴体制を構築し、農業共同体祭祀と大伴氏の持っていた日神祭祀を組み合わせた祭祀と、百済の加羅への侵入容認(四県割譲)と引き換えに百済から迎えた五経博士によって導入された儒教を統治理念とすることで、各地の豪族を統治しようとした。しかし、実現する前に蘇我氏が欽明大王を担いで起こした531年のクーデターによって崩壊し、532年に欽明・蘇我体制が形成された。
 新たに成立した欽明・蘇我体制においては、中央と各地の豪族の連合による統治を脱して、中央の欽明・蘇我に権力が組織的に集中した中央集権的な統治を実現することを目指し、そのための統治理念として仏教が求められた。

Ⅳ.1.2 飛鳥仏教

 仏教導入期の欽明・蘇我体制においては、蘇我氏が親和的でかつ新羅や高句麗との勢力争いで窮地にあった百済に対して軍事的援助を行うという約束の見返りとして百済から仏教がもたらされた。すなわち、日本に最初に宗教として本格的に仏教が伝来したのは、538年に百済の聖明王から欽明大王に「釈迦仏の金銅像と幡蓋若干と経論若干」がもたらされた時であるとされている。538年には、百済の聖明王は扶余に遷都しており、遷都の挨拶という意味もあったものと考えられる。
 なお『日本書紀』では欽明13年(552年)のこととしているが、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起併流記資材帳』に、538年(戊午年)、欽明7年のことと記されており、これが史実であろう。この場合欽明元年は532年(壬子年)となり、531年(辛亥年)に継体大王が没した翌年である。
 ところが、その時には仏教を王権として受け入れることを、物部や中臣に反対されて実現せず、百済からもたらされた釈迦仏の金銅像は蘇我稲目が小墾田の私邸を向原寺としてそれらを引き受けることとなった。さらに、物部と中臣によって寺が焼かれ、仏像は難波の堀江に流し捨てられたという。570年に蘇我稲目が死ぬと翌年の571年に欽明も没し、王権による仏教の導入は一旦消滅した。
 次に、572年に成立した敏達・物部体制では、物部守屋大連の元で継体時代の神祇祭祀に復古したが、蘇我馬子が仏法を私的に行うことは許されるという関係の下で、蘇我馬子大臣の勢力が強く、神祇祭祀派の物部と宗仏派の蘇我の勢力争いが激化して行く状態となった。この敏達大王の時代にあって、577年に百済王から造仏工、造寺工などが送られて難波の寺に配置され、579年には新羅から仏像が届けられるなど、仏教を受け入れる下地が出来ていた。そうした中で、584年に百済から弥勒菩薩石像一体と仏像一体がもたらされたのを蘇我馬子が請い受け、馬子の家の東方に仏殿を造って弥勒菩薩石像を安置し、還俗高句麗僧の恵便を法師として法会を行い、その際に仏舎利を見つけたとされており、また石川の家に仏殿を造り、恐らくもう一体の仏像が安置されたと思われ、翌年の585年に大野丘の北に塔を建てて先の仏舎利を心柱の下に納めている。
 この585年に敏達が没すると、蘇我馬子は欽明と蘇我堅塩媛との間の子の用明を大王とする。用明は仏教に帰依したが、短命で、587年に没した。そこで、物部守屋は、欽明と蘇我小姉君(蘇我稲目と越の高向との間に出来た子で、物部に近いと想定される)との間の子である穴穂部皇子を大王にしようとしたので、これに対して蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼすことを決意して戦端を開き、その勝利を祈願して日本最初の寺院である法興寺(飛鳥寺)の創建を発願する。
 この対物部戦争(587年)において、用明と穴穂部間人皇女(欽明と蘇我小姉君との間の子)との間の子である厩戸皇子(聖徳太子)(574年~622年)は、物部氏の旧来の神儀祭祀に基づいた豪族連合による統治体制を覆して、仏教理念を標榜して中央集権体制の導入を図る蘇我氏の側に立って戦い、その戦いの中で仏法を守護する四天王に戦勝を祈願して寺の創建を約束している。
 この戦いで物部氏を滅ぼした蘇我馬子は、588年に欽明と蘇我小姉君との間の子である崇峻を大王にする。妃に非物部・大友系の小手子を立てることで許容したのであろう。蘇我馬子は同年に、百済から仏舎利と僧と寺院建築工人等の派遣を受け、寺地を確保して法興寺の造営を始め、590年には用材を調達している。
 この法興寺は、日本最初の本格寺院で、一般には一塔三金堂の伽藍配置であるとされ、最も古い伽藍配置とされる中門、塔、金堂、講堂を一直線状に配置した四天王寺式と異なるものとし、その原型を百済の王興寺や新羅の皇龍寺、あるいは高句麗の清岩里廃寺などに求めている。しかし、法興寺の伽藍は四天王寺式伽藍の塔の両側に東西の金堂を配置したものであるのに対して、王興寺は四天王寺式伽藍で、その伽藍を取り囲む回廊の金堂両側に対向する部分に建屋を設けたものであり、皇龍寺も四天王寺式伽藍で、後になってその金堂の両側に東西の金堂が追加されたものであり、清岩里廃寺は塔ではなくて八角堂であり、その東西と北に金堂を配置した伽藍であり、法興寺とは何れも異なっている。要は、四天王寺式伽藍が基本的な伽藍配置であり、法興寺もそれを踏襲しているものとみなされる。
 法興寺が三金堂となった理由は、次のように解することができる。上記のように584年に百済から弥勒菩薩石像一体と仏像一体がもたらされて蘇我馬子が請い受け、弥勒菩薩石像は馬子の家の東方の仏殿に安置し、もう一体の仏像は石川の家の仏殿に安置し、法会で見つけた仏舎利は大野丘の北の塔心柱の下に納めていたのを、法興寺を創建する際に、その塔に588年に百済からもたらされた仏舎利とともに大野丘の北の塔に納められていた仏舎利を納めるとともに、その塔の東西に別途に金堂を造って先の弥勒菩薩石像と仏像を納めることにしたことによるものと考えられる。因みに、東西の金堂の基壇は、塔や中金堂の基壇が切石基壇でさらに束石を使って強度を高めた壇正積基壇であるのとは異なって、乱石積基壇でその外側に壇を設けた二重基壇が採用されており、また塔心礎からの出土品は古墳の副葬品に共通するものと奈良時代の鎮壇具に共通するものとがあることから、上記二種の仏舎利を納めたという見解が補強される。
 ここで、四天王寺式伽藍配置とは、釈迦の遺骨を象徴している仏舎利を納めた仏塔(ストゥーバ)に起源する塔を最も重要な施設と認めて中門を入ってすぐに配置し、その背後に釈迦如来像や他の仏像を納めた金堂を配置し、さらにその背後に僧の学習・研究の場である講堂を配置するという考え方による構造であり、その後釈迦やその遺骨よりも如来や仏を表象する仏像に対する信仰の重要性が高まるのに応じてそれを納めた金堂が主体となり、塔の比重が軽くなって行く伽藍配置に変化して行くことになる。それには、見えない仏舎利を納めた木塔よりも仏像を拝むという方が信仰を示す形として分かり易いという理由もあると思われる。
 話を戻すと、591年には正史(『日本書紀』)では隠蔽されているが、法興年号(「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」、「『伊予風土記』逸文」参照)が立てられており、恐らくは崇峻が聖徳太子とともに、蘇我馬子の専制支配を排して本来の仏教理念に基づいた支配体制を築こうとしたものと想定される。そこで蘇我馬子は、翌年の592年に崇峻を暗殺し、欽明と蘇我堅塩媛との間の子で、用明の同母妹であり、敏達の「皇后」になっていた推古を大王とした。この年、法興寺の仏堂と歩廊を起工している。翌年の593年に上記のように法興寺の塔心礎に仏舎利が納められている。なお、この年に聖徳太子は、南大門、中門、塔、金堂、講堂を一直線に並べた伽藍配置の四天王寺の創建に取り掛かり、約束を果たしているが、完成年は分かっていない。
 その後、595年に高句麗僧の慧慈や百済僧の慧聡が来倭し、聖徳太子が慧慈に師事してより深く仏教を学んでいる。596年には法興寺の創建がほぼ終わり、蘇我善徳を寺司とし、慧慈と慧聡がともに住している。なお、金堂(中金堂)に納められるられるべき本尊の釈迦如来像は無いままで、605年に推古がその造立を発願し、鞍作鳥が作像するが、完成するのは607年の遣隋使の帰国に伴って608年に来倭した裴世清が黄金をもたらした後の609年である。この釈迦如来像は飛鳥大仏として知られているが、元々は同一人の司馬鞍作首止利が作った法隆寺金堂釈迦三尊像と同様に釈迦三尊像として作られたものと考えられている。
 聖徳太子は、慧慈を通して『法華経』、『勝鬘経』、『維摩経』などを学んでおり、これら三経の注釈書で聖徳太子が著したとされている『三経義疏』は、文章の出典研究から後世の述作と認められているが、原典は慧慈の講義を筆録・整理して著述したもので、後に加飾されたと考えられる。因みに、慧慈は隋の612~614年の高句麗出兵後の615年に高句麗に帰る際、この『三経義疏』を持ち帰っている。聖徳太子は、この慧慈を通して仏教思想を理念とする本格的な国家統治の在り様を学んでその実現を目指すことになり、601年には仏教思想に基づいた国家統治の拠点として斑鳩宮の造営を開始し、飛鳥では603年に小墾田宮に移り、同年に冠位十二階を定め、604年には後に加飾された部分があるとしても「十七条憲法」を制定して仏教を国家統治の理念とすることを宣言し、605年に斑鳩宮に移り住んでいる。また、607年には四天王寺式伽藍配置の法隆寺(若草伽藍)を創建している。さらに引き続いて中宮寺(尼寺)、法輪寺、法起寺(岡本宮)などの斑鳩伽藍群と言われる建造物群を創建したものと考えられる。
 そうして、聖徳太子は、同607年に自ら法皇倭王として遣隋使の派遣を新羅・高句麗を経ることで実現している。607年の遣隋使には、小野妹子(せのこ⇒蘇因高)が派遣され、通事に鞍作福利をともなっている。翌年の608年に隋は小野妹子の帰国に合わせて答礼として裴世清を派遣し、来倭した裴世清は男性の倭皇に会っており、それは聖徳太子に会ったものと考えられる。同年に裴世清の帰国にともなって再び小野妹子を遣隋使として派遣し、その際に福因、恵明、高向玄理、南淵請安、僧旻など、後に帰国して乙巳の変(所謂「大化の改新」)とその後の孝徳朝(仏教理念による国家形成を行った新羅に親和的な政権)を主導する人々を遣わしている。
 聖徳太子が「法皇倭王」として主導権を発揮したのは、603年に新羅征討が中止された後、622年に死去するまでの20年弱の期間と考えられ、その間には新羅使が派遣されてきていて親新羅的であったものと考えられ、その一方で聖徳太子死去後の623年には一転して新羅征討が再開されている。聖徳太子が主導権を発揮した間に、多くの池や大溝を造り、各国に屯倉を置き、難波から都に至る大路を設け、馬子と相議して天皇記、国記、国造記などを記録したとされている。
 聖徳太子が死去した翌々年の624年には、仏教界の粛清が行われ、大王による寺や僧の管理統制が強化されている。そうした中で、625年に高句麗僧の慧灌が来倭して、日本で最初の宗派として三論宗がもたらされ、法興寺に受け入れられた。飛鳥時代を通じて唯一の宗派であった。三論宗の概要は、次節で南都六宗の一宗として説明する。
 628年に推古が死去すると、聖徳太子の子の山背大兄王を抑えて舒明が大王となり(山背大兄王は乙巳の変の2年前の643年に蘇我入鹿によって殺されている。)、舒明大王によって初の官寺として百済大寺(東西に金堂と塔を並列配置した伽藍の吉備池廃寺であり、後に天武期の高市大官大寺を経て藤原京の東の大官大寺となり、平城遷都に伴って大安寺となる)が創建され、この時から仏教は、大王又は国家が建立した寺において大王の意向に従って、大王や王族の病気平癒や冥福、災害除けなどを祈願する仏教祭祀を行う、奈良時代の国家仏教(奈良仏教)に向けて推移して行くことになる。
 舒明後は、皇極期、645年の乙巳の変とその後の孝徳期、斉明(重祚)期、天智期、672年の壬申の乱とその後の天武期、694年の藤原京(新益京)遷都を含む持統期、文武期の時代を経て元明期に平城京に遷都(710年)し、本格的に奈良仏教が確立して行くことになるが、その間に川原寺、皇后の病気平癒を祈願する天武勅願の薬師寺、蘇我倉山田石川麻呂が開基の山田寺などが創建された。

Ⅳ.1.3 奈良仏教

 710年に藤原京から平城京に遷都した後、仏教は南都六宗と言われる六つの仏教宗派(学派的要素の強い学僧衆の集まり)が成立していたが、主には三論宗(付―成実宗)と、法相宗(付―俱舎宗(一切有部))と、華厳宗と、律宗である。

Ⅳ.1.3.1 三論宗

 三論宗は、『般若経』及び「中観派」(龍樹)の「空」思想に基づいて中国で開かれた宗派で、「空」の在り様を学習・研究し、それに基づいて禅観を実践することで涅槃に至ることを目指すという、基本的に学問主体の宗派である。
 この三論宗が、上記のように625年に高句麗僧の恵灌によって日本で最初の宗派(論宗)として法興寺にもたらされ、飛鳥時代には唯一の宗派として三論宗だけが研究されていた。その後、平城遷都に伴って元興寺に引き継がれた。また、恵灌の孫弟子に当たる道慈が702年に入唐して西明寺で三論を学び、718年に帰国して大安寺に伝えた結果、日本の三論宗の二流として元興寺流と大安寺流ができた。こうして三論宗は南都六宗の一宗として隆盛したが、学問主体の宗派であるために、平安時代以降は他の大乗宗派の隆盛に伴って衰退し、後に法相宗の一部として吸収されて現存しない。
 なお、道慈は日本に戒律がないことを批判して戒師の招請を提案し、鑑真の来倭に繋がっている。
 また、三論宗の法興寺などで本尊とされたのは釈迦如来であるが、中観派では絶対的な存在で慈悲を与えるような「仏」は前面に立てられていず、寺に仏像を安置するに当たって仏教の開祖である釈迦如来が選ばれたものと考えられ、大乗仏教の本尊としては過渡的な存在であると考えられる。

Ⅳ.1.3.2 法相宗

 法相宗は、玄奘が645年にインドから唐に持ち帰った唯識思想に基づいて弟子の慈恩大師基が開いた宗派で、日本には、道昭が653年に入唐して玄奘に師事し、法相教学を学んで660年に帰国し、法興寺に住んで広められ、法興寺が元興寺に移るのに伴って法相宗も移った。その後、玄昉が717年に入唐して法相を修め、帰国後に興福寺でこれを興隆させた。かくして、法相宗は、特に興福寺で8・9世紀に隆盛を極め、元興寺の法相宗は興福寺に吸収された。
 興福寺自体は、669年(天智8年)に藤原不比等が山科に氏寺として創建した山科寺(鎌足精舎)に発し、672年飛鳥京から藤原京への遷都に伴って同地に移って厩坂寺と名付けられ、さらに710年の平城京への遷都に伴って現在地に移転し、「興福寺」と名付けられて再創建され、法相宗の大本山となったものである。
 また、興福寺の本尊は、唯識思想を無著・世尊に伝えたとされている弥勒菩薩や弥勒菩薩を中心に描いた唯識曼荼羅であるのが当然であると考えられるが、現在は中金堂に釈迦如来像が本尊として設置されている。恐らくは、本尊の唯識曼荼羅は明治の廃仏毀釈ですべての堂塔とともに逸散したものと考えられ、釈迦如来像は飛鳥時代の山科寺からの伝統に倣ったものであろうと考えられる。
 なお、法相宗の大本山としては、興福寺以外に、薬師寺と法隆寺があったが、法隆寺は1950年に聖徳宗として離脱している。また、薬師寺は発願の主旨及び寺名の通り薬師如来を本尊としている。

Ⅳ.1.3.3 華厳宗

 華厳宗は、東大寺の開山(初代別当)となった良弁(689~774年)によって、東大寺を大本山とする宗派として確立された。良弁は東大寺の前身の金鐘寺に住み、義淵から法相唯識を学んだ後、慈訓から華厳宗の奥義を伝授されている。その後良弁は740年には慈訓の師である審祥を金鐘寺に招いて「華厳経の法会」の講師になってもらっている。審祥は入唐して華厳第三祖の法蔵から華厳を学んで736年に日本に伝えた僧である。そして、良弁は751年に上記のように東大寺の初代別当となり、756年に鑑真とともに「大僧都」に任じられ、東大寺を華厳宗の大本山として確立している。
 東大寺自体は、上記のように金鐘寺を起源とし、742年に大和国の国分寺と定められて寺名が金光明寺と改められていた。一方、聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは翌年の743年で、当時の紫香楽宮で造立が始められたが、その後745年に都が平城京に戻されると現在の地で747年に改めて大仏の鋳造がはじまり、その頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになり、史料では748年に初めて「造東大寺司」という役所の存在が見られる。そして、752年にバラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会が挙行され、大仏殿は758年に竣工した。
 この大仏造立に当たっては民衆の支持を得ていた行基の役割が大きかった。行基(668~749年)は、24才で受戒し、法興寺などにおいて道昭から法相宗を主として教学を学び、40才を超えてから行基集団を形成して民間布教と社会事業に力を入れたことで、民衆に支持された。そのことが仏教を鎮護国家を目的とするものとし、民衆への布教活動を禁じた朝廷と国家機関から異端とされ、弾圧を加えられていたが、東大寺の大仏造立に当たって民衆の支持が必要になって740年に聖武天皇から依頼されたことから大仏造立に協力し、743年に大仏造立の勧進に起用され、その効果が大きかったことから、745年(78才)で「大僧正」の位が与えられている。
こうして、日本の華厳宗は東大寺を大本山とし、浮沈を共にしている。奈良時代は隆盛を誇り、光智が『華厳経』に基づく修行の道場を開き、多くの学僧を輩出している。平安時代には荘園経営によって維持を図りつつも平安仏教の繁栄に押されて衰退傾向は避けられなかったが、鎌倉時代になると重源が復興事業に着手し、明恵が実践面で、凝念が理論面で華厳教学の復興を図った。ところが、その後三好・松永の乱で灰燼に帰してしまう。江戸時代に再建されて現在の寺観になるが、以降壇信徒主体の宗派の中で宗勢が振るわず、明治以降は寺領が消滅し、経営は苦しくなり、事業に対する勧進と観光収入に依存するようになるが、そうした中でも勧学院を開設して華厳宗のみならず様々な宗派の学僧が学ぶ場を提供している。

Ⅳ.1.3.4 律宗

 律宗は、鑑真が日本に完全な戒律を伝えるべく何度も来日に挑戦し、753年に6回目でやっと来日に成功し、東大寺に戒律を学ぶ修行道場、戒壇を開いて初めて戒律を授け、その後、唐招提寺(「唐律招提」寺)が創建されて戒律の研究と実践に専念する宗派としての律宗が成立し、転変を経ながらも今日まで続いている。鎌倉時代以来、毎年秋には、鑑真が招来した仏舎利を本尊として「南無釈迦牟尼仏」を唱える釈迦念仏会が行われている。
 なお、明治になって唐招提寺を例外として真言宗に所轄されたが、同33年に律宗として独立した。

 以上のように成立した南都の仏教は、朝廷の保護下で力を持ち、政治に深く入り込んで専横的な振る舞いが見られるようになって行った。

Ⅳ.1.4 平安仏教

 桓武天皇は百済王族の外戚(母が高野新笠)であり、新羅の影響を受けた天武系勢力や白鳳文化の影響を排除すること、及び問題のある南都仏教の影響力を一掃することを意図して、784年に長岡京への遷都を行い、そこで支障があったことから794年に平安京に遷都している。それが可能になったのには、天皇系譜が天武系から天智系に戻り、779年には新羅と断交していたという状況がある。
 桓武天皇が、南都仏教に対抗できる新たな仏教の担い手として目を付けたのが、最澄の天台宗と空海の真言宗の平安二宗であり、これらを保護している。平安二宗は、最澄が比叡山に延暦寺を、空海が高野山に金剛峯寺を開いているように、南都仏教が都市仏教であるのに対して山岳仏教であるという特徴を有し、また密教を持つことで皇室や貴族の現世利益をかなえる貴族仏教としての特徴を持っている。

Ⅳ.1.4.1 天台宗

 最澄は、785年東大寺で具足戒を受け、栄達の道が待っていたが、比叡山に入って山林修行に入り、788年に後に根本中堂となる草庵を創建する。802年に桓武天皇に入唐求法の短期留学生に選ばれ、804年の遣唐使に伴って38才で入唐し、「法華経」を中心とした天台教学を学び、天台山に登って国清寺で達磨禅を受法し、805年に台州龍興寺で大乗菩薩戒(戒律)を受け、さらに越州龍興寺で真言密教の伝法を受ける。ただ、その密教は不完全なもの(雑密)であった。同年帰国後、桓武天皇の病気平癒を祈り、806年に上表が受け入れられて日本の天台宗の開祖となり、比叡山に延暦寺を創建した。812年には空海から灌頂を受けているが、813年空海に「理趣釈経」の借用を申し出たところ、実践修行によって得られるとして拒絶され、以降交流が断絶する。また、法相宗の徳一との間で、「三乗」と「一乗」の何れが真実かということで有名な「三一権実論争」をする。818年には自ら具足戒を破棄し、天台宗では大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間の山中での修行することを義務づけている。822年比叡山で死去するが、同年念願の天台宗独自の大乗戒壇による大乗戒の授戒が許されている。天台宗は、後に円仁、円珍が入唐して密教を本格的に学んだことから密教(台蜜)を包含することになった。
 また、天台宗では、平安時代を通じて本宗のかたわら浄土教が信仰され、慈覚大師円仁は五台山の引声念仏を常行三昧に導入・融合し、天台浄土教が発祥する。平安中期になると、源信らによる浄土教が貴族階級に受け入れられて力を持つようになり、その浄土信仰の代表例が宇治平等院鳳凰堂である。さらに、平安末になると、法然の専修念仏が広まり、鎌倉仏教のさきがけとなった。

Ⅳ.1.4.2 真言宗

 空海は、地方郡司の子で低い身分ながら、18才で大学寮に入り、804年31才で最澄とともに学問僧として入唐し、805年に西明寺で密教の第七祖の長安青龍寺の恵果和尚に師事して密教の奥義を伝授され、同年伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を得ている。806年に帰国し、816年に高野山を得て金剛峯寺を創建し、真言密教の開祖となった。また、都での道場として東寺が創建されている。空海は密教の儀軌(作法)によって修法を行うことを要諦としている。また、空海の密教は鎮護国家の仏教となり、空海が天皇の即位灌頂を行うことで、その地位と繁栄を担保して行った。
 平安後期になると、さすがの真言密教も閉塞感が見られるようになり、革新の必要性が生じてきた中で、覚鑁(興教大師)が法然などの浄土思想を真言教学で捉えた「密厳浄土」思想による新義真言宗(密教的浄土教)を開き、高野山を降りて根来寺を創建している。

Ⅳ.1.5 鎌倉仏教

 鎌倉時代になると、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、法華宗(日蓮)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)の開祖がそれぞれ活躍し、新たな仏教宗派が開かれた。これらの開祖は皆比叡山天台宗に学んでおり、天台宗は新宗派を生み出す母胎となっていたと言える。
 これらの鎌倉仏教の各宗派は、武士や一般庶民の仏教として生まれてきたこと、そのため在家のまま救いを受けることができるという方向で共通している。これは、社会の基礎的な構造が、奈良仏教に対応する律令国家による人民管理・統治から平安仏教に対応する貴族・荘園領主による管理・統治を経て、人民が自治する村落共同体とそれを庇護する武士の主従連携による管理・統治へと変化したことに対応したものである。
 これらの各宗派の内容については次節で説明する。

Ⅳ.2 現存宗派の概要

 次に、現存する主な宗派の沿革・教義・修行などの概要を見て行くことにする。

Ⅳ.2.1 法相宗

 法相宗は、インドの瑜伽行唯識派の思想を継承する宗派で、唯識思想が玄奘によって中国に伝えられ、玄奘の弟子の慈恩大師基が実質的に開祖となって成立した宗派である。
 日本には先述したように飛鳥時代に道昭によってもたらされ、法興寺で広められ、さらに奈良時代に玄昉が興福寺で興隆させて確立して以来の伝統ある宗派である。
 唯識思想は、教義上は、釈迦入滅後56億7千万年後に兜率天からこの世に降下して人々を救済するとされている弥勒菩薩が、無著とその弟の世親に伝えたものであるとされており、唯識思想の重要な論典として、『解深蜜経』と『瑜伽師地論』と『成唯識論』がある。
 『解深蜜経』とは、解放(悟り)へつながる教えの意で、龍樹後の3C頃に成立し、唯識を初めて説いた経とされているが、梵本は逸散している。『瑜伽師地論』は無著が弥勒菩薩の教えを聞いて著したとされ、瑜伽行の観法、行者が認識する対象(境)、修行、果を詳説し、瑜伽行者の階梯について論じている。『成唯識論』とは、唯識による(悟りの)成就の意で、世親が著した『唯識三十頌』を6Cに護法が注釈し、それを玄奘が漢訳したものである。『成唯識論』には前の二つの『経・論』の内容がほぼ網羅されており、法相宗はこれを中心にして慈恩大師基が立てたものである。
 『成唯識論』の内容は、第一に我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する説の徹底した批判、第二に八識(阿頼耶識、末那識、六識)についての説明、第三に世界の一切の存在は実在するのではなく、識の投影に過ぎないこと(一切唯識)についての説明、第四に三性・三無性が説かれ、第五に修行の五つの階梯が明らかにされ、そうして修行によって八識を仏の智慧である四智に変換できる(転識得智)としている。
 八識とは、意識作用の八種で、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の「六識」と、深層心理ないし無意識分野における、自我執着心である「末那識」と、すべての存在を生じる根本の心である「阿頼耶識」である。「阿頼耶識」には、無限の過去から現在に至るすべての行為の残してきた余力・余習が一切の「種子」として貯えられており、「種子」は「阿頼耶識」に潜在したままで変異(転変)しあらゆるものを生み出し、また「阿頼耶識」は転変して「末那識」及び「六識」を生む。それらは一刹那に生じ、一刹那に滅し、かつ一刹那生の印象が「種子」として貯えられるのである。この「阿頼耶識」は受胎時に生まれ、死によって身体から離れ、輪廻するとされている。
 三性とは、唯識のもとでの諸法の相、即ち存在の在り様には三種があるとするもので、それらは「遍計所執性(分別によって構成された性質、世俗的生活で経験される事象)」と、「依他起性(因果関係によって他者に依存して生起すること)」と、「円成実性(円満に諸法の功徳が成就する実性、真実の本性が現れること)」の三種であり、かつそれらはそれぞれ「相無自性」、「生無自性」、「勝義無自性」であり、三無性としている。このように諸存在は「無自性(空)」で実体のないものであるとする空の思想を基礎に置いている。
 修行方法として、五つの階梯の瑜伽行(瞑想)で構成された五重唯識観が提示され、第一階梯の瑜伽行で、「遍計所執性」の幻を捨て、第二~第四階梯の瑜伽行で「依他起性」が深められ、第五階梯の瑜伽行で「円成実性」だけが現れるとされている。
 四智とは、仏の智慧で、「大円鏡智(対象をそのまま映し出す智慧)」、「平等性智(自他の平等性と一体性を覚り、慈悲の働きを生む智慧)」、「妙観察智(自他の一体性と個性・特徴を覚る観察の智慧)」、「成所作智(現実生活において悟りを成就させる智慧)」という四つの智慧であり、上記のように瑜伽行の修行によって八識をこの四智に変換できるとされている。
 法相宗は、このような唯識思想に基づいた宗派であり、瑜伽行の実践の中で唯識の体験を得ること、またそれを教理にまとめた唯識の教学を唱道するものである。教学においては、まず識(心)だけは存在すると仮に考える。次に、阿頼耶識が、自分の意識も、外界にあると認識されるものも、生み出していると考え(唯識無境)、最終的には阿頼耶識もまた空であるとする(境識俱泯)。そうして、瑜伽行の実践は、こうした言葉を超えた真如を体験すること、仏陀の体験を追体験することであるとしている。

Ⅳ.2.2 華厳宗

 華厳宗は、先に見た『華厳経(大方広仏華厳経)』を所依の経典として教学体系を立てた宗派であり、中国で杜順を開祖として開かれ、法蔵によって体系づけられた。日本には先に見たように法蔵に学んだ新羅の審祥によって伝えられ、その教学を受け継いだ良弁が東大寺初代別当となって東大寺を中心として広めたものである。
 『華厳経』では、先に見たようにこの世界は宇宙的・絶対的な存在である毘盧遮那仏(大日如来)の内実であり、「一即一切、一切即一」であるとしている。中国にそれが伝えられると、その世界の在り様の論理的・現実主義的な解釈がなされ、法蔵によって「法界縁起」として捉えられる。即ち、世界の実相は個別的な事物・存在が、「相即相入」(相互に関係し合う)した「重々無尽の縁起」(無限に重なり合った縁起)としてあると理解される。これは、縁起説の究極的な発展形態を示すものと言われている。
 さらに、澄観に至って、この実相に対する四つの見方が「四法界」として示される。それは、①「事法界」(通常の見方)、②「理法界」(無自性・空の見方)、③「理事無礙法界」(両者が止揚され、相互に妨げ合わず共存する見方であるが、これは天台の考え方で両者を分けている点で不徹底であるとする。)、④「事々無礙法界」(分裂が無く、無自性・空が消え去り、ただ事物と事物が融通無碍に共存しているという見方で、これが「真如法性」がありのまま現象として現れている(「性起説」)、本来の「真実一如」の世界であるとする。)である。
 一方、修行に関しては、すべてのものには仏性が備わって(如来蔵)いるが、迷いが邪魔をしてこの本性を見出すことができていないので、この華厳思想を持って物事のありのままの姿を見るようにすることが修行の要諦であるとされ、華厳宗の修行は教学が中心となっている。

Ⅳ.2.3 天台宗

 日本の天台宗は、最澄(767~822年)を開祖とする宗派である。
 天台宗自体は、中国において、諸経の王といわれる『法華経』を根本経典とし、智顗を実質的な開祖として開かれた宗派で、智顗が天台山国清寺に住んでいたことから天台宗と呼ばれている。智顗は、鳩摩羅什が重要視していた『法華経』と『般若経』と龍樹の『大智度論』、及び『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、「止観」によって仏となると説いており、その要諦の一つに大止観と呼ばれる10巻から成る『摩訶止観』があり、それに対して止観法門の要義を説いた1巻10章の『天台小止観』がある。
 天台宗では、全ての事象の中に「十界」(地獄から仏までの十の状態)が収まっているという「性具説」を取っている。これは、衆生は自らの認識の仕方にしたがって具体的にあるものとして生きているのであり、そのような衆生のあり方の構造は衆生の心の中にもともと備わっているものであると見てとって立言されたものである。そして、止観修行によって仏性が目覚めさせられて行くとされている。
 天台宗の根本的な修行である止観とは、瞑想・坐禅に基づく修行の道すじのことで、止(実相の寂然たること)と観(実相の智慧)を意味し、自己の一心のうちに森羅万象が円満具足しており、迷いから悟りにいたるあらゆるものごとが本来そなわっていて、それを禅観的思惟によって体得できるとしている。
 日本の天台宗は、律宗と天台宗兼学の鑑真が天台関連典籍をもたらしていた状況で、先に見たように、最澄(伝教大師)が平安初期に智顗の教えを極めたいとして入唐し、天台山にのぼって国清寺で天台教学を学び、その後禅の教えや浄土教や戒律(大乗菩薩戒)や密教(雑蜜)などを学んで帰国し、比叡山に延暦寺を創建して天台宗を開いたことに始まる。最澄は、『法華経』を基盤とした戒律、禅、念仏、密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指しており、延暦寺は四宗兼学の道場と呼ばれていた。それによって、後に鎌倉仏教の始祖が比叡山から輩出することに連なって行ったと見られる。
 最澄は法華一乗の思想の推進者で、「仏の慈悲は絶対である」と説き、出家と在家の区別をしない緩やかな戒律である凡網戒を保ち、出家にのみ許される具足戒を破棄している。
 最澄の後、円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)によって天台宗に本格的に密教が取り込まれ、天台密教として整えられて行った。円仁は838年に入唐したが、天台山には行けなかった。しかし、五台山で法華経と密教の整合性に関する問題に関する解答を得、長安に行って金剛界曼荼羅を入手して842年に帰国し、第3代座主となっている。また、円仁は五台山の引声念仏(声を緩やかに長く引き伸ばして称える念仏)を常行三昧に導入している。円珍は空海の甥で、第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜って伝法灌頂の道場とした。その後、安然によって天台密教が完成される。天台宗では、遮那業(止観業に対する密教の業)として加持を行う一方、あくまで法華一乗の立場を堅持して、本尊は久遠実成の釈迦如来であるとしている。後に、円仁派(山門派)が比叡山を占拠したため、円珍派(寺門派)が園城寺を拠点として両者が対立し、その抗争の中で武装化し、僧兵組織の端緒となった。
 平安中期には、第18代座主の良源が中興の祖となり、その弟子の源信が985年に『往生要集』を著している。それは、死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説くもので、善行(僧院での難行に相当)の積み上げによる成仏を説いており、瞑想による自己の肉体の観想とそこから阿弥陀仏を色身として観仏する観想念仏という難行を求めている。一方、一般民衆のために称名念仏(易行)を認知させ、また臨終の際に阿弥陀如来の来迎を念じて往生を助けるという具体的な実例をもって浄土往生を説いて庶民への普及を図っている。また、『往生要集』で説かれた地獄・極楽の観念、「厭離穢土」・「欣求浄土」の精神が貴族・庶民にも普及して、浄土教の基礎を作ったことから浄土教の祖とされている。
 平安後期には、天台宗延暦寺は政治権力と癒着し、規律が弛緩して堕落してしまい、上層部が利権争いをする一方、下級僧侶は僧兵になるしかないという状況になった。
 そうして、院政期以降、『法華経』に基づいた「天台本覚思想」が本格的に興隆する。「本覚」とは、そもそも衆生にあっても本来的に悟りの智慧が具有されていて、それ故に覚ることができるということである。そこから「悉有仏性」すなわち人間は本来仏性を持っており、「一切衆生悉皆成仏」すなわち在家の凡夫も成仏することができるということになる。最澄の時代にも、正式な僧侶になるための具足戒を破棄し、出家と在家の区別をしない緩やかな戒律・凡網菩薩戒が提起され、認められて実施されており、萌芽的に存在していたが、そこから、さらに「あるがまま」の姿(迷いの行為、執着、生死)を、仏の真理の活性体として肯定することで、現世を肯定的に生きるべき根拠を与え、また、生死ともに、永遠の生命・絶対の真理の現世における活現の姿であるとし、現世と来世の区別をせず、根源において同一とする「絶対的一元論」へと展開されて行くことになる。それに対応して「仏の慈悲は絶対である」とされるようになり、修行は不要、戒律も守る必要はなく、仏の慈悲にすがることで、あるいはすがりさえすれば成仏できるとされるようになり、鎌倉仏教における易行化への道を開くとともに、僧侶の堕落・腐敗の一因ともなった。
 そうした中で、平安末から鎌倉初期にかけて法然、栄西、親鸞、道元、日蓮などの学僧が学び、危機的な状況を脱する方途を探る中で自らの教理を打ち出し、鎌倉仏教の各宗派の開祖となって行く。
 その後、腐敗・堕落した状況が続く中でも、宗教的権威を持つとともに僧兵による強力な武力を持つことで、領家領主から戦国領主化して行き、そのことから、16Cに織田信長によって焼き討ちされ、衰退は免れなかった。しかし、江戸時代になると天海が徳川家康の側近として権力を振るい、寛永寺(東の叡山)を創建するとともに延暦寺の再興が図かられた。
 延暦寺では、現在も天台総合仏教として、天台宗の修行である「止観」(禅と智慧)を重んじるとともに、十二年籠山行、密教修法、回峰行、阿弥陀仏を念じてその周囲を回り続ける常行三昧などの修行が行われている。
 また、天台宗は、衆生の済度を目指す本格的な大乗仏教として、『法華経』を中心としつつ浄土教や密教などを包含した総合的な大乗仏教を目指していることから、その本尊としては、久遠の本仏として捉え直された「釈迦如来」とともに、「阿弥陀如来」が大乗仏教の「仏」として初めて登場してきた。教理上、阿弥陀如来は釈迦よりも遥か遠い過去に仏となったとされている。

Ⅳ.2.4 真言宗

 真言宗は、空海(774~835年)を開祖とする真言密教の宗派である。空海は、讃岐生まれの低い身分ながら遣唐使に学僧として随行を許されて入唐し(804~806年)、長安の青龍寺で恵果から最新の密教を学び、沙門遍照金剛となって日本に『大日経』と『金剛頂経』をもたらした真言密教の開祖である。高野山は900mの頂上部に蓮華のような八葉の峰々に囲まれた盆地を有することから中台八葉院の形をしていると見なすことができ、816年、空海はそこに立体曼荼羅を形成するべく中心となる根本大塔と諸堂を建立して金剛峯寺を創建し、修禅の道場としている。また、823年に嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺(東寺)を真言宗の根本道場として宗団を確立し、真言宗の総本山としている。
 真言宗は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来を本尊とし、即身成仏と蜜厳国土をその教義としている。即身成仏とは現世においてこの身のまま悟りを得て仏になれるということで、真言密教の修行によって可能となるとしている。また、蜜厳国土とは大日如来がいる浄土ということで、真言宗では「三蜜によって荘厳される浄土」の意に解して実はこの世界がそれにほかならない、若しくは即身成仏を求めて人々が高めあってゆくことで実現できるとする。
 主な教理としては四つ、①六大縁起の教え(事物を地水火風空識の六大要素のそれぞれの持つ命の活動として説明)、②曼荼羅の教え(主尊(大日如来)を中心に諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に表した図で、その構造にて密教思想を表している)、③三蜜修行(身蜜(印契)、口蜜(真言読誦)、心蜜(曼荼羅の諸尊観想))、④即身成仏(本尊と一体となって成仏、すなわち仏と人が合一する体験を得ることであり、「三密加持」にて「仏身即衆生身、衆生身即仏身と観想する」ことで「衆生身」が「仏身」と重なり合っている「重々帝網」の境地に至り、速やかに「成仏」したすがたの「即身成仏」になるとしている)が挙げられる。
 また、真言密教においては、仏の呪力による加護を願って加持祈祷が広く行われている。加持とは手印・真言呪・観想などの方法で仏と人が感応道交することで衆生に加護を与えること、祈祷は呪文を唱えて仏に祈ることである。
 真言宗の教学においては、『金剛頂経』を所依とした修法の作法に係る事相と、大日如来を宇宙の本体であり絶対の真理であるとする『大日経』を所依とした教相とを重要視し、両相を学ばなければ真言密教の理想とする境地には到達できないとしている。
 また、空海の教えには、密教が説く心の状態の段階を表した『秘密曼荼羅十住心論』(「十住心論」)がある。それは、①動物のように欲望に生きている段階、②子供のように愚かだが善に目覚める段階、③天界に生まれることを望むなど異教に心を奪われている段階、④無我を信じる段階、⑤縁起の法に目覚める縁覚の段階、⑥菩薩道に目覚め、唯識を奉じる段階、⑦般若の智慧を目指す中観派の段階、⑧三乗は一乗に帰すとする天台宗の段階、⑨大乗の法の極まった華厳の世界の段階、⑩胎蔵・金剛曼荼羅の世界に入った段階とされており、当然のことながら密教を最高の段階としている。かくして、顕教に比べて密教(真言密教)の優位性を説き、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されると説いている。
 空海入定(没)後は、教学に関しては空海によって大成されていたため論争はあまりなかったが、東寺と高野山の本末争いがあったり、師資相承の重視の結果、事相(修法)の違いによる分派が進行した。また、分派による衰退傾向の中、先に述べたように11C末には覚鑁が、秘密念仏思想を提唱した結果対立が生じて古義真言宗と新義真言宗に分裂し、以後両派に分かれて多数の分派が成立することになった。

Ⅳ.2.5 浄土宗

 浄土宗は、法然(法然坊源空)を開祖とする浄土教の一宗派である。法然は、平安末比叡山延暦寺で天台教学を学び、1147年受戒を受けた。1175年、43才の時、中国浄土教の僧で「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した善導大師(613~681年、玄奘と同時代)の『観無量寿経疏』によって回心を体験し、引き続いて阿弥陀仏や極楽浄土の真実性を示す宗教体験をし、新たに「浄土宗」を開くことを志し、教えを広げて浄土宗の開祖と仰がれた。
 法然の教えは、インド唯識派の祖師である世親の『往生論』(浄土教所依の経論)と、善導大師の教えに則ったものとされている。その教えは、「衆生が皆成仏するまで自らは成仏しない」と誓って成仏した阿弥陀仏の誓いを信じ、阿弥陀仏の本願力を堅く信じて、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば死後平等に極楽浄土に往生できるという、称名念仏による専修念仏の教えであり、鎮護国家ではなく、個人の救済に専念する姿勢が顕著な教えである。そうして、専修念仏を行う浄土門を、悟りを目指して修行を行う聖道門に対置し、聖道門自体を否定するわけではないが、聖道門は現世の凡夫には不可能であり、浄土門を有効な行であると説いている。
 また、浄土宗では、「現世」は穢土で、そこで成仏することは不可能であると断定し、死後に「極楽浄土」に往生することを求め、極楽浄土におられる阿弥陀仏を一心に念ずることによって、一切の衆生が極楽浄土に往生できるとしている。浄土宗において、極楽浄土へ行く条件とは「厭離穢土 欣求浄土」ということに尽きると言える。さらに、その極楽浄土というのは、空相ではなく、実体として存在すると見なすという意味で「有相」であるとされている。極楽浄土に往生した後は、そこで菩薩道を修行して成仏することを目指し、成仏すると現世に還って衆生の済度に尽くすものとされている。
 また、浄土宗において、衆生にとっての釈迦と阿弥陀仏の位置関係は、往生の道を教えた教主は釈迦であるが、救うのは救主たる阿弥陀仏であるとされている。

Ⅳ.2.6 浄土真宗

 浄土真宗は、親鸞(1173~1263年)を開祖とする浄土教の一宗派である。親鸞は、1181年に天台座主・慈円のもと得度し、比叡山延暦寺に登って20年にわたって修行するが、自力修行の限界を感じ、法然を師と仰ぐことになり、その真実の教えを継承し、高めて行くことに力を注いだ。そこでは、独自の寺院をもつことはなく、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形を取っていた。しかし、その隆盛に伴って既成教団や浄土宗他派から攻撃を受け、そうした中で宗派としての教義が明確になって行った。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)が完成した1247年が浄土真宗の立教開宗の年とされているが、定められたのは親鸞の没後である。なお、『教行信証』は世親の『往生論』と曇鸞の『往生論(浄土論)註』に則ったものと見られており、親鸞という名も両者から取ったものであろう。
 『教行信証』においては、『大無量寿経』を「真実の教」であるとし、阿弥陀如来の本願と本願によって与えられる名号「南無阿弥陀仏」を、浄土門の真実の教え、すなわち「浄土真宗」であるとし、「本願を信じ念仏申さば仏になる」とした。具体的には、名号を阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、その呼びかけを聞いて信じ願う心が発った時に往生が定まり、往生が定まった後の称名念仏は、我が名を称えよという阿弥陀仏の願いに報いる「報恩の行」であるとし、念仏を極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えてはならず、「信心正因称名報恩」ということを説いた。
 これは、往生は「如来の本願力」(他力)によるものであり、凡夫のはからい(自力)によるものでないとして、絶対他力を強調したものである。
 また、親鸞の教説の理解に欠かせない『歎異抄』は、親鸞没後に教団内に湧き上がった異論・異説を嘆いて説かれたもので、親鸞が語った正しい教えを記したものとされている。中でも「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という「悪人正機」が典型的な教えである。それは、衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」であるということであり、自分は「悪人」であると自覚させられた者こそ往生するべきであり、逆に善行によって往生しようとする(自力作善)者は本願力を疑う心であると捉えられる。
 浄土真宗においては、当然のことながら、衆生も「本来覚っている」という「本覚思想」の前提はなく、また寺は念仏道場として捉えられ、僧俗の区別も希薄である。

Ⅳ.2.7 日蓮宗

 日蓮宗(法華宗)は、日蓮(1222~1282年)を開祖とする、『妙法蓮華経(法華経)』を所為の経典とする宗派である。日蓮は延暦寺で「阿闍梨」になり、『法華経』と「天台本覚思想」を学び、さらに延暦寺を中心に園城寺、高野山などに遊学し、諸宗派の教義や各経典を見直した上で、一切経の中で『法華経』を最勝の経典であるとし、「南無妙法蓮華経」の題目を唱える唱題行を説いた。天台宗の修行では、「南無妙法蓮華経」の題目は「南無阿弥陀仏」の称名念仏などと並行して行われていたが、1253年に念仏と禅宗を謗法を犯しているとし、題目だけを唱える「専修題目」を説き、その結果同年又は数年後鎌倉に移っている。1260年には、正しい仏法(法華宗)が行われないから災害が起こり世が乱れるとする「立正安国論」を北条時頼に提出し、また自身の仏法弘通にとって不可欠として浄土宗の専修念仏を批判対象とした。1268年に蒙古国書がもたらされ、その対応策を検討する間に諸宗派との公場対決を求め、そこで「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と決めつけ、「南無妙法蓮華経」が末法に弘通すべき正法であるとすることを明らかにした。
 日蓮宗系統の宗派では、題目のなかに法華経のすべてが集約されていると説き、唱題を信仰実践の基本と位置付け、題目を唱えることは受持即持戒であるとしている。また、本尊は、題目を中央に書き、周囲に諸仏・菩薩・天の名前を書いた「大曼荼羅」であるとし、唱題時には「大曼荼羅」の題目を見て唱えることを勧めている。また、『法華経』では釈迦如来は遠い過去に成仏していた久遠の本仏であり、歴史上の釈迦はその本仏が現世に出世した姿であるというように解釈していることから、久遠の本仏たる「釈迦如来」を本仏とし、かつ日蓮を釈迦入滅後の末法に現れた仏の化身であるとして、直接的な宗祖である日蓮を本仏とする分派も存在している。

Ⅳ.2.8 臨済宗

 臨済宗は、禅宗の一宗派である。禅宗は、南インド出身で中国に渡った達磨僧を祖とし、坐禅を基本的な修行形態としている。坐禅は古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、唐代末に坐禅を中心に行う仏教集団が禅宗と呼称され始め、宋代にかけて発展した。禅の根本は仏性にあり、それを悟るのが「智慧」であり、智慧を修するのが「定」であり、禅は「智慧」と「定」を併せているとされている。
 臨済宗は、唐末の臨済義玄に始まり、宋代には曹洞宗との論争以来、曹洞宗の「黙照禅」(黙々と坐することによって仏性があらわれるという禅風)に対して「看話禅」(公案を説いて悟りに至るという禅風)がその特徴とされるようになる。
日本の臨済宗は、入宋して学んだ栄西を開祖とする宗派であり、時の武家政権との結びつきが強かった。その後衰退したが、江戸時代に白隠禅師によって再興された。妙心寺や大徳寺などに学寮が設けられ、宗学の伝授と資格の付与を担っている。
 禅宗は、悟りを開くことが目的で、悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くこと」とし、その悟りは言葉による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的・身体的体験で伝承されていくとされている。臨済宗の修行法としての公案、若しくは禅問答とは、老師から与えられる問題・課題であり、禅語録から抽出された師と弟子との間の問答から成り、その対話は考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができるものとされている。すなわち、論理的思考では決して解けないような矛盾がある内容となっており、にもかかわらずひたすら考え続けると、ついに禅の精神の解答が分かるときが来て、その時に悟りが開かれるとされている。現状でも、500~1900の公案の体系が知られている。

Ⅳ.2.9 曹洞宗

 曹洞宗は、中国において達磨から始まったとされている禅宗の一宗派として洞山良价によって9Cに創宗された。日本の曹洞宗は、道元を開祖とする禅宗の一宗派であり、臨済宗とは異なって地方武家、豪族、一般民衆に広まった宗派である。道元自身は、上流階級の出自で、頑固一徹の性格であったと言われ、若くして世の無常を感じて出家を志し、比叡山で出家し、天台教学を学んだ後栄西の弟子に師事し、1225年に入宋し、中国曹洞禅の「只管打坐」の禅を受け継いでいる。1227年に帰国し、京都深草で『正法眼蔵』の著述を開始する。そうした中で入門が相次いだことから比叡山から弾圧を受け、越前の笠松に後に永平寺となる寺を開き、その後招請もあったが断って永平寺に止まり、永平寺がそのまま曹洞宗の総本山となった。
 曹洞宗は、釈迦を本尊と仰ぐが、「只管打坐」、すなわちひたすら坐禅すること、そこに万法(自己・他己を含む世界の在り様)が現成(顕現)する、即ち「悟る」のであり、修行と悟りは不可分で一体のもの、すなわち「修証一等」であるとする。「悟り」若しくは「成仏」について、自己の内に「仏なるもの」を有しており、坐禅修行によってその「仏」になるとする「作仏」というのは間違いであるとして全面的に否定する。自己の内に「仏なるもの」が有るのではなく、自己の存在そのものが「仏性」としてあるのであり、坐禅修行によってその「仏性」が「現成」するのであり、坐禅はその「仏性」としての「行」、即ち「行仏」を行っているとする。「作仏」のように成仏によって修行が完成するのではなく(実際のところそのような成仏が実現することはない)、仏としての行、行仏をひたすら繰り返し続けるということが教義の中核にある。