付―諸々の事柄について

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付 ―諸々の事柄について

 最後に、大乗仏教及び仏教周辺の教説における諸々の事柄について個別に取り上げて説明するとともに、必要に応じて現代釈迦道の立場からの評価を示す。

項目
  易行化  因果  廻向  只管打坐  慈悲
  宗教  身心脱落  善悪  禅定の九段階  知識と智慧
  涅槃と煩悩  普勧坐禅儀  仏・仏性  弁道話  菩薩
  マインドフルネス  瞑想  ヨーガ  ヨーガ・スートラ  輪廻
  輪廻と解脱

易行化
 大乗仏教に特徴的な事柄として「悟り」に至るため、もしくは「極楽往生」するための修行の「易行化」がある。易行化を可能にする第一の最も根源的な根拠は、『法華経』において説かれているように、衆生であっても誰でも本来的に仏性を具えているという「如来蔵」思想にある。禅宗においても本来仏性を持っているとされている。それによって、汚れを取り除いて本性を現わせば悟ることができるということから、厳しい難行ではなく、容易な修行で悟ることができるということになり、悟りまでの距離が短くなる。
 また、超越的な仏の側からのアプローチとして、「自力」の修行・難行に対する「他力」による易行化ということもある。これは、浄土教系の宗派において、阿弥陀仏の願によって、衆生が「称名念仏」により浄土に往生ができ、そこで悟りを得ることができるということであり、真宗では現生(現世)で成仏できるということである。
 さらに、後の天台本覚思想では、「現実の世界が仏の世界」であるということを一面的に解して突き詰めた結果、求めるべき悟りなどというものはなく、修行はとりたてて必要でないということになり、宗派と僧の頽廃をもたらすことになった。
 こうして、衆生の済度を目指して衆生を対象にすることで、易行化、すなわち悟りを求める修行のある程度の空洞化の進行は避けられず、その空洞化の進捗度に応じて仏の慈悲力による担保が増大するというのが、大乗仏教の在り様であると言える。

因果
 一般的に因果とは、原因と結果のことであり、因果律、即ち一切のものは何らかの原因から生じた結果であり、原因がなくして何も生じないという法則の構成要素である。かくして、二つの出来事が原因と結果という関係で結び付いているとき、あるいは結び付けることができるとき、両者に因果性がある、因果関係にあるとされる。
 仏教では、因果とは因縁(因と縁)と果報(結果としての報い)のことであり、因は直接的な原因、縁は間接的な原因を意味している。ここで、因果は善悪の判断を持ち込んだ因果応報と理解され、善因は善果を、悪因は悪果をもたらすことを意味し、さらに業(ごう)と報いの関係として解釈され、前に行った業(ごう)の報いを受けること、悪業を行えば必ずその報いとして悪果を受けるというような、通俗的な仏教の倫理規定として理解されることが多い。さらに、世の中の不条理に対して悪人には必ず天罰が下るということであると解釈し、それによって人々が溜飲を下げることで、民心の安定に寄与するという働きをする。
 ここで、因果を課題とするのは、主に道元の『正法眼蔵』で「大修行」(75巻本)と「深信因果」(12巻本)の記述の間において、「不落因果」と「不昧因果」の評価に矛盾と不明確な点があり、それをどう解釈し正しく理解するか、その上で現代釈迦道における因果の解釈を提示することにある。
 素材は、『無門関』の第二則「百丈野狐」で、百丈のもとを訪ねた一老人(実は野狐で、元住職)から質問を受け、百丈がそれに答えたという話である。元住職が学人から「大修行底人、還落因果他無。(大いなる修行を奥底まで行じた人も還って(再びまた)因果の法に落ちるや、無 (いな)や。) 」という質問を受けて、「不落因果 (因果に落ちず) 」と答えたところ、間違っていたようで五百回野狐として生死をくりかえしているが、どう答えたら良かったのかと、百丈に同じ質問をし、それに対して一言「不昧因果 (因果の法に昧(くら)まされず) 」と答え、それで野狐は悟って成仏し、百丈は野狐の屍を見つけて丁重に葬ったという内容である。公案としては続きがあるが、ここでは割愛する。
 「百丈野狐」では、「不落因果」は間違いで「不昧因果」が正しいということになっているが、その場合の「不落」、「不昧」の意味を確認する必要がある。「不落因果」の因果に落ちないとは、因果に囚われてしまわないということを意味すると考えられる。さらに、因果を否定し、信じず、排斥することを含意するという見方もある。それに対して「不昧因果」の因果を昧まさないとは、「昧」は夜の明け方の薄暗い曙のことで物事を暗まして正しく見ないことを意味していると考えられるので、因果を正しく捉え、むやみに因果に執らわれることがないことを意味すると解するのが至当である。
 また、ここでの問題は、「還」、恐らくは修行者が修行から離れて日常に還ったときに、「因果」が再びまた作用するか、どのように作用するかということであり、かつその「因果」は仏教上の概念で、因縁と果報で、因果応報を意味すると考えられる。
 道元は、『正法眼蔵』「大修行」で、「大修行を摸得するに、これ大因果なり(大いなる修行を会得するに、大いなる修行とは大いなる因果である)。」、「この因果、必ず円因満果なるがゆえに、いまだかって落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。」と述べている。ここで、円因満果とは、因円果満(いんねんかまん)とも表現され、因円(まどか)に果満ずということ、完全なる因のもと、完全なる結果が成就することである。因みに、「大修行」より前に記述された「諸悪莫作」で、「仏道の因果は、異熟(善因でも悪因でも何も起こらない)等流(善因が善果になり悪因が悪果になる)等の論にあらざれば、仏因にあらずは仏果を感得すべからず。」と述べており、同じ主旨と考えられる。かくして、「不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。」と断じている。すなわち、「大修行」においては、修行における因果を対象にして、そこでの因果は落不落も昧不昧もないということである。このように「大修行」においては、修行は円因満果である(修証一等である)ことを主題として述べている。
 一方、「深信因果」では、「昔の祖師は因果を否定したことがないことははっきり解るが、近頃は因果撥無する者が多い。そのことが解るのは、不落因果と不昧因果を一等(等しく異なっていない)と思っているからである。」としている。そして、「参学のともがら、因果の道理をあき(明)らめず、いたずらに撥無因果のあやまりあり。」、「不落因果は、まさしくこれ撥無因果なり、これにより悪趣(悪道)に堕す。」と述べている。不落因果は撥無因果、即ち因果の道理を否定し排除するものであると断じ、因もなく、果もないというのは外道であり、災禍を招くことであるとしている。即ち、不落因果を因果の全否定と論断している。
 それに対して、「不昧因果は因果に昧からず(因果を明らかに理解している)ということ、修因感果(修行(因)から証悟(果)が感得される)という趣旨は明らかである。」、「不昧因果は、あきらかにこれ深信因果なり、これによりてきくもの悪趣を脱す。」と述べ、不昧因果は、因果の道理を深く信じること、深信因果であるとし、因果の全肯定であると解している。かくして、因果を深く信じることで修行、その修証一等が実現することを説いている。
 しかし、不落因果とは、因果に完全に囚われてしまうことはないというだけであって、どうなるのか不定のままで明らかにされていず、正答していないとはいえ、因果を全否定しているという解釈には無理がある。また、不昧因果とは、因果を明らかに理解して昧まされないということであって、通俗的な因果応報を含めた形で因果を全肯定することではない。仏教の世界観、縁起の世界にあっては、原因と結果の道理(因果律)を全肯定したり、全否定することはあり得ないことである。
 そもそも原因、結果が問題となるのは、ある好ましい或は好ましくない事態(結果)が生じたとき、又はそのような事態(結果)を想定して、何故どのようにしてそのような事態になるのか、その要因を探り、好ましい事態が生じるように或は好ましくない事態が生じないように行動し、対策を講じるときである。
 原因と結果という因果関係・因果律は、ものごとが縁起という在り様をしていることに基づいて成立する事柄で、その原因と結果は縁起の展開として存立しているものであり、実体的な在り様をするものではない。結果としての事態においてその結果の骨格となっている主要な要因(factor)を生み出した多種多様な要因群における主要な要因が原因と呼ばれるものである。ここで、要素(element)は構成単位・構成要素というように実体的な捉え方を含意するので、ある結果をもたらす作用的な捉え方を含意する要因(factor)を用いている。かくして、因果律とは原因としての条件が十全に整うこと又は整えることで、縁起がコントロールされて所期の結果が実現する又は実現できるということである。
 自然であっても、人間社会であっても、因果とは、ものごとが縁起する過程、縁起による転変における特徴的な一つの態様である。Aという事柄からBという事柄が生み出された時、Aという実体的なものがBという全く別の実体的なものに転変したということではなく、AにはBの要因が包含されており、Aの中のある要因が、一定の条件のもとで、他の要因と関係を取り結ぶことで、Bとしての特徴的な要因に一定の再現性と安定性をもって転変したということであり、そのときAのある要因と一定条件が原因、Bの特徴的な要因が結果であり、それらの間に因果関係にあるということである。
 因果をこのように理解すると、善業を行えば善果が得られるという通俗的な因果応報というのは、その善業に意図する善果の要因を内包しかつ条件が整っていない限り、偶々そうなることがあったとしても、また善業が何らかの結果に連なり、回り回っていつか善果が得られることを否定できないとしても、基本的に必ずそうなるというものでないことは明らかである。実際、因果応報が実現しない場合の弁明(言い訳)として、「三時業」ということを持ち出して、過去・現在・未来の間に必ずそうなると表明され、結果は生じても生じなくても因果応報は必ず成り立つというように強弁されるが、それは因果というものではない。
 修行に関して言えば、因(修行)と果(証悟)は、修行の中に証悟の要因があることによって成就すると考えられ、成就することで修証に因果関係があるということになる。現実的には、そもそも証悟あるいは解脱するとは実際に修行者がどういう状態になることか、そして証悟(解脱)に至る修行とはどういうものかが問われることになる。実際のところは、証悟(解脱)したとされる「釈迦牟尼仏」及び以降の「古仏」と称される先達が行った修行と悟った後の言行から窺うしかないということになる。釈迦は解脱に至る道・修行として「八正道」を提示しているが、肝心のところの実体は明確でない。また、「証悟」は説明できるものではなくかつ証悟したことは証悟(成仏)した人にしか分からないとされており、しかも広く万人が認める状態で生きたまま成仏した人が確認された例は知らない。そのため、誰でも「悟った」と言えば、否定することはできず、それを素朴に信じる人々が集まって利権が得られるということから、そういう怪しい人が出てくるということがあった。そこで、修行は師匠と弟子の関係の下で行い、「悟った」ことを師匠に報告し、認可を得ることで「悟った」ことが公認されるというシステムが出来上がった。ただ、システムが出来ると形式化することが避けられないという問題がある。結局、修行と証悟の間に現実的に因果関係を追認することは不可能で、因果を信じて修行するしかないというのが実際である。
 現代釈迦道においては、単純に世界における自己の在り様を見出し、その在り様を実践することが原因となって、自己がその在り様を体現し、充実した生を全うするという結果が得られるということに尽きる。

廻向
 大乗仏教のもう一つの特徴的な事柄として「廻向」概念がある。涅槃に解脱するには本来は修行しかないが、それだけではなく自分が積み重ねた善行・善根を自分以外に振り向けることにより我執が取り除かれ、その結果善行・善根が自身の涅槃への解脱に向けて振り向けられる(菩提廻向)という考え方であり、これが第一義である。この考え方によって菩薩の利他の修行が自身の涅槃への解脱と結び付くからである。この限りでは釈迦仏教の修行の範疇を大きく逸脱するものではない。しかし、この考え方が、「一切皆空」、自他に区別はないということからさらに展開されて、自分自身の善根・功徳を衆生の済度に振り向けることができる(衆生廻向)とされるようになる。終局的には、宗派の団体に私財を提供すれば、功徳を積むことになるとすることで、布施がより直接的な効果をもたらす功徳とされ、また死者の成仏を願って仏事・供養することまでが廻向と言われるようになって、寺院の経営システムに組み込まれたものに堕すことになる。
 こうして、大乗仏教で衆生が済度されるためには、超越的で慈悲に溢れた仏に帰依し、その帰依を表するために易行化された修行を行うとともに、善根・功徳を積み重ねればよいということになり、それによって大乗仏教の推進機関である寺院や僧侶の経営・生計の確保が図られている。

只管打坐
 功夫弁道(仏道に精進すること)の要諦は、「只管打坐」であるという文脈で用いられる。
 「只管打坐」と言う時、その意味するところの立ち位置は複数ある。
 第一は、焼香、礼拝、念仏、看経を用いることなく、只管打坐(ただ正身端坐)することによって身心脱落(証悟)するという意味。
 第二は、宗杲が提唱した看話禅(公案禅=師に提示された公案を坐禅して考え、その答えを師に示して合格すれば次の段階の公案が提示されてそれを考えることで、証悟を目指すという禅風)に対して、宏智が提唱した坐禅の在り方(公案禅に対して黙照禅と揶揄された)を示すという意味。
 第三は、自己が悟るために、悟りを目的として坐禅するのではなく、ひたすら坐るという意味。
 「只管打坐」の意味は、言語上ではただひたすら坐ることであるが、「ひたすら坐る」ということの意味内容は、単に坐るということではなく、「坐は不為なり」ということにある。作為なしに、すなわち思考を止めて坐ること、またバリヤーを張って自分の世界に入るのではなく自分を開いて正身端坐すること、その坐禅になりきることを意味している。
 このような坐禅が成立するためには、「只管打坐」によって「身心脱落」すること、「身心脱落」した坐相が「仏」であるということを信じることが前提になる。ただし、坐っている「自分」が「仏」であるということではない。このことを確認し強調しておく必要がある。
 また、「只管打坐」の坐禅は、誰が、どこで、いつ坐っても坐相が仏であるということを前提にした大乗の行であり、坐に段階も、階級もない。ただし、深まりに違いはあるとされ、それに応じて一層広い世界が開かれてくるとされている。

慈悲
 世間一般では、仏や菩薩(特に観音菩薩)が、その深い慈悲をもって衆生を救済するということ、衆生にとっては一心に信じ祈ることにより、現世利益を含めどのような願いも叶えられるという関係において理解されている。即ち、「慈悲」を、仏や菩薩の働きを表す一つの言葉・事柄、乃至「慈悲心」という一つの心としてとらえ、その働きによって恵みが与えられることと考えられている。そこから、権力者あるいは上位者に対して、刑罰や賦役の免除・軽減あるいは地位・財物の授与や下賜を乞う際に用いる言葉として使用されることもある。
 仏教一般(大乗仏教)においては、上記仏が垂れる慈悲ということを否定するわけではないが、その重点が、仏・仏道を信じる一般の衆生に対して、自他不二であるから他者(相手)に対して慈悲の心をもって実践するようにと投げかける事柄に転換されている。そして、「慈悲」は「慈」(いつくしみ)と「悲」(あわれみ)に分けられ、龍樹の見解によれば、それぞれ楽(気持ちが平らかでこころよいこと)を与える「与楽」と、苦を除く「抜苦」を意味するとされている。
 以上の現状の基本的な理解を確認して、慈悲という考え方が登場した経緯を改めて見て行き、その含意を確認して行くことにする。
 元々、仏教で「慈」と「悲」が登場したのは、「慈・悲・喜・捨」という四つの無量心(四無量心、四梵住、四梵行)を構成する要素としてである。四無量心は、上座部仏教におけるサマタ瞑想(止―澄み切った心を得る瞑想)において、瞑想の対象とする四十業処の一部である。「四十業処」は、ブッダゴーサの『清浄道論』によると、十遍(目に見える物体のカテゴリー)、十不浄、十随念(回想、熟考)、四無量心からなる色界の三十四の業処と、四無色界(無色界の禅定(静慮))と、その他二つの業処から成り、四無量心は、色界における最上位の段階の瞑想の業処である。
 四無量心の「無量心」は、限りない心で、すべての有情に対して自他怨親なく平等の気持ちを持つことを意味している。
「慈(マイトリー)」は「慈しみ」ということで、友情が語源で、楽、即ち心身に苦痛がなく、平らかでこころよい自らの気持ちを、他者に差し出すことで、楽を共有しようとする心を意味している。この「慈」の瞑想を深めることで、どんな瞋恚(心に違う対象に対する憎悪・恨み・怒り)も消えるとされている。
「悲(カルナー)」は「あわれみ」ということで、同情が語源で、他者の苦しみの気持ちを、自らの気持ちとして受け入れ、苦を共有しようとする心を意味している。この「悲」の瞑想を深めることで、どんな害意(他者に対する敵愾心・暴力的な考え)も消えるとされている。
「喜(ムディター)」は「喜び」ということで、苦楽を他者と共有していることで、自他共に喜びの心に満たされることを意味している。この「喜」の瞑想を深めることで、どんな不満も消えるとされている。
「捨(ウペッカー)」は「平静」ということで、楽でも苦でもない不苦不楽で、喜びの心を超えた状態で、無関心ではなく、心が動揺しない平静・平等の心を意味している。この「捨」の瞑想を深めることで、どんな怒りも消えるとされている。
この四つの業処に対するサマタ瞑想が達成されると、色界に関して止の状態が得られるということである。
 ところで、釈迦牟尼入滅後、ヒンズー教の隆盛に押され、仏教が衰退局面に陥るとともに、仏教教団が上座部と大衆部に根本分裂してしまい、その事態に対する自己変革として大衆部の中から大乗仏教が登場し、それに伴って他の宗教と同様に超越的な信仰の対象としての「仏」が定立され、その仏の働きが「慈悲」であるとされた。
 「仏」の登場は、縁起する世界が「無常」「無我」という在り方をするという釈迦仏教の捉え方から、世界の在り様を「空」として捉えるように変化したことによって、「空」という在り様をしている世界そのものを体現するものとして、世界そのものである超越的な「仏」という存在が考えられたということである。そして、その大乗仏教の「仏」は衆生を救済する存在でなければならないという要請から、自ずから「仏」の特性・その働きとして「慈悲」が取り上げられたということである。「仏」の働きとしての「慈悲」とは、端的に言えば、母親がその子に対して注ぐ愛情に見られる「慈しみ」や「あわれみ」などの要素を含んだ総合的でかつ深い愛であるとともに、世界全体に限りなく広がる普遍的な愛であると見るのが至当であろう。仏とは、そういう存在であるということから、仏を信じ祈ることによってその「慈悲」を受けることができるとされ、それによって他の宗教に対抗して隆盛を取り戻そうとしたということである。
 この仏の慈悲は、キリスト教におけるゴッドの愛(アガペー)に対応し、両者は同様のものと考えられ勝ちであるが、根底的に相違したものである。即ち、ゴッドは世界の創造主であり、そのゴッドが創り出したものに注ぐ愛がアガペーであり、それは自己犠牲的に無差別に注がれる無償かつ無限の愛である。しかし、この愛は原罪(神の世界を「自己」としてカコイ取った罪)を持つ人間に対して、懺悔し赦しを請うことを求め、それを条件とするものであって罰を内包しており、邪悪なるもの、即ち懺悔せず敵対するものに対しては罰を下すことを前提としている。結局、絶対者が従属するものに注ぐ愛である。そして、ゴッドを受け入れた人間同士がゴッドの無条件で献身的な愛を施し合うこと、たとえ敵であってもゴッドを受け入れた人間同士として隣人を愛することが求められるという構造である。
 そして、この他者への愛から社会的弱者に対するチャリティ(慈善)が推奨され、キリスト教信者による社会的な慈善事業が社会福祉的な機能を果たすようにさえなっている。只、キリスト教信者が行う慈善は、根本的にゴッドによる上からの施しとしてであり、人間社会における経済システムの中で強者が弱者を生み出しつつどれほど稼いでいても慈善を行っていれば、その生活の在り様を変えることなく、ゴッドに懺悔し赦しを請うことで祝福を得ることができるという機能を持っている。
 この様なゴッドの愛に対して、仏の慈悲は、世界の外にある創造主ではなく、世界そのものとしての仏が、同じく世界そのものである衆生に対して注がれる愛である。仏は超越的な全体者であるとはいえ、仏と衆生は世界そのものとして同じ地平にあり、仏の慈悲は上から施される愛ではなく、自らの一部に対して注がれる愛である。かくして、母の子に対する愛という譬えは、母は自分の子を他己でありながらも自己の分身であるという感覚に基づいている点で、類比的な関係にあり、それなりに故のあることである。かくして仏という存在には敵対という概念は成立せず、また仏の慈悲には罰というものはない。
 この仏の慈悲はひたすら一心に仏を信じ祈ることによって注がれるものとされており、慈悲の恵みを得るためには、仏に対する信仰が前提条件である。そこから、慈悲の恵みが得られないとすれば、信仰、その実践が不足しているからであるとされる。そうして、一旦信仰に入れば、仏に対する信仰の証として、仏の働きに倣って他者に対する「慈」と「悲」の実践が求められるという構造になっている。ここで、衆生の実践が対象となることで、仏の「慈悲」という概念成立の原点であった「四無量心」の中の「慈」と「悲」が改めて個別に取り出されるとともに瞑想対象から実践項目に転換され、他者に対して「慈=与楽」と「悲=抜苦」を実践することが仏に対する信仰の実践とされ、それが仏の「慈悲」の実質的な内容ということになる。結局、仏の「慈悲」というのは、衆生を仏教に入信させるための「方便」であり、実質的には衆生が「慈」「悲」の行を実践することによって仏の「慈悲」が実現されるということであろう。仏と衆生がともに世界そのものであるとする世界観の当然の帰結と考えられる。
 また、仏教徒の「慈」・「悲」の実践は、「四無量心」で見たように、自己と他者は同一の地平にあって平等・対等な関係の中で行われることであり、上からの施しではない。しかも、「慈」は自己の楽の心を相手に差し出して共有し、「悲」は相手の苦の心を自らに受け入れて共有することであり、自己の心が相手と究極的には世界と一体のものであると了解することであり、自己の生活の在り様自体が変わらざるを得ないということである。従って、キリスト教信者が行うチャリティ(慈善)とは全く異質のものである。仏教僧が日常生活の在り様を何ら変えることなく、慈善的なイベントを行っているのを見ると、否定するつもりはないが、見せ掛けの社会貢献を行っているように見え、違和感をもってしまうのも故のないことではない。
 「慈・悲」の実践は、以上の説明では心の持ち様が主体となっていて抽象的に過ぎ、具体的な実践を理解するのは困難である。ここで、具体的な実践としては、道元禅師が『正法眼蔵』で「菩提薩埵四摂法」として取り上げ、各々縷々説明している「布施」「愛語」「利行」「同時」という四つの実践が最も良く合致すると思われる。簡単に言えば、布施は貪欲を抑えて分かち合うこと、愛語は慈愛に満ちた言葉をかけること、利(他)行は見返りなしに他人のために行動すること、同事は違わないことで、相手の立場に立って共働することを意味しており、これら四つの実践が「慈・悲」の実践に該当するということは理解される。ただ、何故これら四つの摂法が取り上げられ、それ以外でないのかは分からない。
 「四摂法」は元々『三十二相経』(パーリ仏典 長部 第30経 )などにおいて示されたものである。三十二相とは、例えば手足指縵網相(手足の指の間に水かきのような金色の膜がある)、大舌相(舌が薄く清らかで広く長い)、真青眼相(瞳が青蓮華のように青い)、頂髻(ちょうけい)相(頭の頂の骨と肉が髻(もとどり)のように高く隆起している)、白毫相(眉間に柔らかい毛が右回りに納められていて、光明が放たれる)など、仏陀がその身体に備えている三十二の形相であり、『三十二相経』などでそれらの形相と、それらが得られる善き行為が説明されている。その中で、「四摂法」は手足指縵網相が獲得される前世の善き行いとして示されている。各形相が得られる多様な善き行為の中から四摂法が取り上げられたのは、大乗仏教の菩薩及び仏道修行者が行うべき慈・悲行に対応する行為が纏まって示されていることによるもので、多くの経論で援用されて定説化し、後に道元禅師も取り上げ、詳細に論述されたものと考えられる。
 まとめると、慈悲は衆生が仏を一心に信じ祈れば恵みが与えられるという仏の働きであり、衆生はその信仰を証するために、仏・菩薩に倣って慈・悲行を実践することが求められるということである。そして、慈・悲行の具体的な実践項目としては四摂法、即ち布施、愛語、利行、同事の実践があり、その実践によって充実した人生が実現することで、結果求めていた慈悲(恵み)とは具体的な形態は異なるとしても仏の慈悲が実現されたことになるということであろう。

宗教
 人々が「既存の苦」や「未然の苦に対する不安」に耐えられず、神や仏などの「超越的存在」に依存し、祈ることで逃れようとする心理・弱さに基づいて成立している幻想体系である。「超越的存在」を、ものごとの本性・真理・普遍的絶対的な存在であり、神秘的な神通力を発揮するとして顕揚することでその存在を正当化し、それに帰依することを求めるものである。現代釈迦道は、このような宗教は完全に否定するが、その一方現状においてその存在を排斥するものではなく、その必要性が無くなり、自然に消滅することを目指すものである。

身心脱落
 「身心脱落」は、道元禅において只管打坐して大悟される境涯であり、所謂「悟りの状態」と言えるものである。
 この「身心脱落」の意味するところは、「身心脱落」出現以前の「身塵脱落」と対比することによって明確に理解される。
 「身塵脱落」は、人間の心には欲望や煩悩が塵として積もっており、その塵を修行によって洗い流すことで、人間がその心に本来持っていた清浄な心・仏性が見成して、「成仏」することができるとするものである。人の心は、謂わばその核として「仏なるもの」を所蔵しており、それを覆っている塵を取り除くことで「仏」が現われてくるという考え方が前提である。
 「身心脱落」という言葉は、道元『宝慶記』(懐奘書写)に記載された事案において最初に見られる。如浄が「参禅は身心脱落なり。・・」と示し、それ対して道元が「身心脱落とは何か」と拝問し、如浄は「身心脱落とは坐禅なり、只管に打坐する時、五欲を離れ、五蓋を除くなり。」と示し、それに対して道元がさらに「五欲を離れ、五蓋を除く」ということであれば、経論に基づく教家の人々が説く仏教と同じであり、大小二乗と同じではありませんかと再拝問し、それに対して如浄は大乗・小乗などと区別して嫌ってはならないと示した。
 このやり取りを見る限りでは、如浄における身心脱落とは坐禅において五欲を離れ、五蓋を除かれるということを意味している。なお、五欲は色(目)、声(口)、香(鼻)、味(舌)、触(身)という身体器官に対応する欲望であり、五蓋は貪欲、瞋恚(いかり・憎しみ)、惛沈・睡眠(倦怠・眠気)、卓挙・悪作(浮動・後悔)、疑(疑い)という心の在り様に対応する障害、煩悩である。このことから、如浄の言う「身心脱落」は、中国における如浄の文献に見られる「心塵脱落」(身心脱落は見えない)に相当するものと言え、ただ坐禅と一体、坐禅そのものとされている点で進展がある。おそらくは、五欲・五蓋を頭で否定して生じないようにするのではなく、坐禅において生まれて来ない身心の状態になることを示そうとしたものと考えられ、それを道元がさらに展開したと理解される。
 道元の「身心脱落」が現実的にどういうことを指しているのかということに関しては種々の解釈乃至は理解が提示されており、現在のところ細部にわたっても衆目が完全に一致するというものはない。
 大局的には、「身心脱落」は、身体と心は別々のものではなく一如であると捉えた上で、その身心が吾我若しくは自我の持つ五欲や五蓋によって束縛され拘束された状態にあり、そのような状態の身心を脱落させるということである。普通に考えると、身心が脱け落ちるということは、自分の身心即ち自分という存在自体、その全体が消滅するということであるが、坐禅における身心脱落は身心が消滅するのではなく、坐禅の中でそれまでの「自己」と認識される身心が脱け落ちることで入れ替わって、自己と意識されるものを相対化して包含している状態で普遍的に存在する「仏性」がそこ、坐相にある身心に現成するということである。この身心脱落状態では、広い世界が開かれるとされ、あるいはさらに自受用三昧に遊化、即ち菩提(真実の智慧)を受け止め活用して何物にも縛られない、自由自在・融通無碍な本来の在り方に落着し、未来永劫の安楽が得られるとされている。
 その他の視点からの「身心脱落」の理解として、身体と心のすべての束縛から解放された状態、身心が調えられ完全に寛いで「自己」が消失したゼロポイントの状態、本来的な在り様である「あるがままの自己」の状態、吾我による束縛や拘束から解き放たれて世界と一体になって無限大の広がりをもって自由に働いている本来の状態、思いの手放し状態にいること(非思量)によって身心に張り付いていた凡夫印が仏印に張り替えられ仏性が現前した状態、などと表現される解釈が示されている。
 以上のような「身心脱落」の色々な理解を整序すると、第一は、只管打坐して身心を調え、吾我を放捨することを指標とし、吾我によって生じる五欲・五蓋による束縛・拘束から解放された状態になるというものである。如浄の身心脱落に相当し、すべての理解に共通している。
 第二は、その上で自意識に基づく分別知による思量を止め、非思量の状態になることを指標とするものである。頭脳を働かせて分別知により思考すると、その自意識が自己調整能力の発揮を邪魔するので、「考え」を追いかけず、考えが止まっている状態、考えない状態を保持することを指標とし、完全に寛いでリラックスした状態になるというものである。「ゼロポイント」の状態に相当する。
 第三は、その上でさらに意識の働き、心意識の運転を停止し、意識レベルを低下させることを指標とし、それによって本来的に備わる調整能力が作用して身心脱落し、「あるがままの自己」(本来の面目)が現前するというものである。
 第四は、第三の意識の働きの停止を徹底し、意識レベルを極限まで低下させて仮死に近い状態になることを指標とし、そこに超越的な世界が現前するというものである。
 第五は、第三の行において、第四のように意識レベルを極限まで低下させるという方向ではなく、仏性の働きに対する確信・信心を前面に押し出すことを指標とするものであり、仏性(世界)の働きが自分の坐禅を援助してくれると確信し、信じることで「身心脱落」が実現するとし、それを感得することが「証悟」したということであるとする。これが主流であり、道元は終局的には仏性に対して全面的に依拠することを示している。
 要するに、只管打坐して最初に吾我を捨て、次に自意識に基づいて思量することを止めて非思量を保持し、さらに意識の働きを停止し、最終的に極限まで意識を低下させて仮死状態となるか若しくは仏性を信じ仏性の働きを確信することによって、それぞれに対応した意味の「身心脱落」の状態が実現するということである。
 現代釈迦道の立場では、思量を止めた上で、意識を極限まで停止した状態を保持し、若しくは仏性の働きに対する確信・信心を持つことによって成就するとされる「身心脱落」とは、変性意識状態(Altered state of consciousness, ASC )になることであると認める。そこでは、「何物にも縛られず、世界一体となって自由自在・融通無碍に働くことができる。」「自受用三昧に遊化している。」という「思い込み」や確信が現実であると認識し、所謂「現実」は虚妄である認知されることになる。現実を虚妄とし、虚妄を現実であると顛倒・倒錯させている。しかし、こんなことは変性意識状態にある限りことであって、現実の世界に戻ると元に戻ってしまうため、坐禅を専業的に行う出家ではなく、現実生活が主体の衆生にとっては、多少気持ちの持ちように変化があったとしても現実的には殆ど意味の無いものであり、現代釈迦道で適用できるものではない。
 現代釈迦道においては、吾我を放棄し、世界に対して独立した自己意識を持って自立しているとする「自己」を脱し、そのような自己意識による世界に対する分別知、即ち、ものごとに対する概念・観念を実体化して理解し、そのような知識や、それに基づいて形式論理的な思量によって得られた知見などに基づいた思量を止める。このように吾我を放棄して五欲・五蓋を離れ、自己意識を脱した状態を「身心脱落」の状態と認める。現代釈迦道では、世界と一体でその一分枝として存在する自己における世界と自己に対する意識に基づいて、世界と自己の在り様を思量すること、分別知による「思量」に非ざる思量としての「非思量」によって自己の在り様を検証し、本来の在り様を見出すことになる。

善悪
 一般的に、善悪は道徳的な基準に照らして判断するものと考えられている。共同体、特に国家においては、その円滑な運営にとって必要な秩序を維持するため法が制定されており、その法に反すれば罰せられる。それに対して、社会システムが発展し安定した社会が成立すると、法に反するということではなくても、より広く行動や思考全般に亘って社会や共同体に対して好ましいあるいは好ましくないと判断する基準、即ち善悪の判断基準に関して社会的に共通した意識が発生し、それと同時に各個人が社会生活を営む中で人となるのに伴ってその意識が内心化されることで各個人が持つ良心という形で社会的共同意識が確立し、その善悪の基準に照らして個人の行動や考えの善悪が判断されることになる。即ち、道徳においてその善悪判断の根本的な前提とされる良心とは、社会的共同意識を実体とするものである。
 さらに社会が発展し、社会システムが高度化すると、人の行動規範や善悪の判断基準が普遍的で抽象的な理念―例えば世界は普遍かつ永久不変の秩序体系に基づいて成立しているという世界観―に基づいた道徳として提示される。即ち、道徳においてはその善悪の判断は普遍的で高邁な理念を背景にしていると観念されるようになる。また、その高邁な理念は往々にして崇高な存在、さらには超越的で神秘的な何ものかに観念的に結び付けられることがある。なお、道徳的な善悪の判断基準は、抽象的なレベルにおいては普遍性が認められるとしても、より具体的な事柄に対する善悪の判断においては当然の事として歴史的に成立してきたその社会の在り様、時代や地域文化の特性によって規定され、相互に内容が異なって多様である。因みに、倫理は道徳における判断基準を普遍性をもって理論的に説くものである。
 仏道乃至仏教における善悪は、内容的には道徳と類似性をはらみながらも根本的に趣を異にしている。仏教において、善悪を主題とした最初の記述は、「ダンマパダ」(パーリ文で、26章423の詩句(偈)から成っている。)の第183偈においてであり、通例「七仏通誡偈」と称されている。その内容は、「ダンマパダ」では「一切の罪を犯さぬこと」「善を具足すること」「自らの心(マナス)を清めること」「これが諸仏の教えである」と記されている。ただ、「ダンマパダ」では偈(詩句)のみで注解は存在しない。この「ダンマパダ」を漢訳した「法句経」においては、「七仏通誡偈」として「諸悪莫作」(諸悪を作すことなかれ)、「衆善奉行」(衆善を奉行すべし)、「自浄其意」(自ら其意を浄めよ)、「是諸仏教」(これが諸仏の教えである)とされている。ここで「ダンマパダ」では自発的にあるべき状態を記述しているのに対して、「法句経」では強制的な命令形になっていることが注目される。
 この「七仏通誡偈」は、「諸仏」との記載から明らかなように、釈迦牟尼が亡くなった後上座部仏教などの部派仏教や大乗仏教が成立し、仏が定立したBC3C頃になって、恐らく上座部仏教によって創作されたものと考えられる。また、この「七仏通誡偈」での「善・悪」の内容、即ち善悪の判断基準は、釈迦牟尼によって提唱された法・僧(サンガ)の前に仏を加えた、三宝(仏・法・僧)にとって良いことは「善」、敵対する行いは「悪」と解釈されていたものと考えられる。
 さらに、「諸仏の教え」の「諸仏」とは過去七仏のことであるとし、その七仏に亘って正伝してきた戒であると解釈することで「七仏通誡偈」とされたと考えられる。「七仏」に関しては、釈迦牟尼が亡くなった後、釈迦牟尼仏として崇められる中で、仏という存在が定立されると、釈迦牟尼仏を最初の仏と見るのではなく、過去にも幾多の仏が存在し、釈迦牟尼仏は新たにその仏になったと考えられるようになるとともに、幾多の過去仏の中で特に六仏に注目し、釈迦牟尼以前の六仏から釈迦牟尼に至る七仏が過去仏信仰の代表例となったものと解される。実際、インド中部の紀元前後の仏教遺跡のバールフットの欄楯に七仏造樹の浮彫が見られる。
 「七仏通誡偈」の最初の注解は、パーリ仏典『導論(Nettipakarana)』に見られる。(森祖道「パーリ文献に現われたいわゆる「七仏通誡偈」」、日本仏教学会年報1999年、http://nbra.jp参照)。そこでは、諸悪とは八つの邪悪(邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命、邪精進、邪念、邪定)であるとされ、「八正道」に反することが諸悪であるとされ、これら八つの邪悪を遮断するとき、八つの正善、即ち「八正道」が生起し、それが衆善奉行とされている。また、「自浄其意」とは、往古の道の修行を実践し、それを思念することとされ、心が浄化されたとき五蘊が浄化出現するとされている。ここでは、「七仏通誡偈」は八正道に結びつけて注解されており、「四諦」や「三学」と結合した解釈も示されている。
 また、『景徳伝燈録』には、この「七仏通誡偈」に関して禅を好む詩人の白居易と禅僧道林との間のやりとりの逸話が見られる。それは、白居易が道林に「仏教の真髄は何か」と問い、道林が「七仏通誡偈」を示したのに対して、白居易が「三歳児でも分かる」ことであると述べたところ、道林が「八十歳でもできない」と説示し、白居易は一礼して退去したという話である。
 なお、日本ではじめて善悪を扱ったものとして『日本霊異記』があり、そこでの善とは仏法僧(三宝)にとって良いことは善、それに敵対する行いは悪と定義づけられている。
 道元は、『正法眼蔵』31巻「諸悪莫作」でこの「七仏通誡偈」を取り上げ、これが七仏に通ずる教えであり、仏祖から仏祖へと正伝して今日に至った教えであるとし、それは七仏の教えであり、行持でもあり、行でもあり、証でもあるとしている。その上で、善悪について独自の解釈を示し、「諸悪」や「衆善」における善・悪とは、善性・悪性・無記性の中の善性・悪性ということであり、その「性」というのは「無生」、即ち「生じたり、滅したりするものとしてあるのではない」との理解を示している。かくして、善悪はこの世とあの世、時の流れ、天上と地上で同異があり、仏道と世間でことに異なるとし、また善悪は時によるが、時は善悪でなく、善悪は法(世界の在り様)にあるが、法に善悪はないとされる。
 そうして、修行において「諸悪」など作りようがないところに真の修行力が現成するとし、その現成はあらゆることがらをつくす全世界を量として現成し、その量は「莫作」を量とするとしている。ここで、量(プラマーナ)とは、拠るべき規範・根拠、norm ということである。かくして、身心をなげうって修行するとき、世界の中に修行の力がまっしぐらに現れてくるとし、「諸悪は一條にかって莫作なりけると現成」し、この現成に助発せられて「諸悪莫作なりと見得徹し、坐得断ずるなり(諸悪は莫作ということを体得する)。」としている。衆善についても、修行においてはすでに間断ない善なのだから奉行のあらゆる性相など備えているということである。
最後に、逸話に関しては、白居易は本来の仏法を知らず、理解していないから三歳児でも知っているなどと言ったとし、それに対して三歳児が言えても八十歳の老人でも行じられないと言った道林の心は、三歳児にも本当の言葉があり、八十歳の老人でも分からないものは分からないのであり、そこのところを巧夫すべきだということであると解している。
 近年、南直哉氏は『善の根拠』(講談社現代新書、2014年)において、善悪の根拠を問い、一神教では「神」が善悪の根拠であり、神が善を啓示し、その神の啓示を実践することが善であるとされ、何の神を選び信じるかによって善悪の問題は決着し、また無神論者は善悪を知らないものとされるとしている。それに対して、仏教では、その世界観において「自己」の在り様は「他者に課せられた自己」としてあり、「課せられている」ため矛盾と困難に満ちた存在である(「苦諦」「一切皆苦」)とし、そのような「自己」の在り様を認め受容することは困難であり、否定し拒絶することは欲望されるが、このような「自己」の在り様から解脱する道を示すのが仏教であるとしている。そして、解脱の道を歩もうとする(発心する)者は、仏法僧に帰依するという形で「自己」の在り様を受容することになるとしている。「自己」の在り様を受容(諦観)し、確固とした意志をもって、「仏法僧に帰依し、その戒律を守って修行することで「自己」の在り様から解脱してニルヴァーナに至ることができる」という「因果」を信じて修行すると発心すること、その意志が善を実践する根拠であり、「自己」の在り様を受容しつつ戒律を守って修行することが善であるとしている。
 しかし、現代釈迦道の立場から見ると、「課せられている」という把握は、「自己なるもの」と「他者なるもの」が対置されるような存在であること、「他者」は「自己」に対して「課す」という関係にあること、そういう認識を前提にしないと成立しない見解である。( 課す : 制約をかける。義務や負担を負わせる。)
 しかし、「自己」というのは「世界」における諸関係の在り様、諸関係における無数の関係項の一つの「纏まり」、ある程度の自立的な主体性をもって「世界」の在り様における様々な役割を担うに至った「纏まり」として存立するものであり、「世界」と一体にその構成部分として存立しており、この「自己」の成立を実体化すると、「他者」としての世界と対置される「自己」となる。「自己」というのは「世界」の中で「世界」に「課せられる」関係や対象として存立しているのではない。尚、「課せられている」とは、様々な条件に拘束されているという認識を表現したもので、同じ事態を示しているとも考えられるが、やはり「他者に課せられている」という捉え方の限りで認識が異なっているように思われる。
 かくして、「課せられた自己」を受容する(善)とか拒絶する(悪)とかということは成り立たず、「世界」の中での「自己」の在る位置における役割を誠心誠意をもって果たす(精進する)ことが「世界」における「自己」の在り様である。この在り様を全うすることが善と言えば善、違背することは悪と言えば悪であり、「自己の在り様」を受容するのを善、拒絶するのを悪とする点では共通する。但し、何らかの価値判断基準を設けてそれに基づいて善悪を判断することとは異質のそれ以前の「自己」の在り様そのものに係る事柄である。
 尚、「自己」が「世界」におけるその位置の役割を十分に果たせないと思えば、他に新たな関係を取り結ぶことに精進し、「世界」における「自己」の新たな位置と役割を獲得することであり、それ以外にない。
 善悪の基準を立てて善とか悪とか判断し、善を為すというような事柄ではない。

禅定の九段階
 禅定には九つの段階があるということが、初期仏教経典の『阿含経』に説かれている。それは、色界の四禅と無色界の四禅と究極の一禅である。色界四禅の初禅は、欲界から完全に離れ、その煩わしさから離れた境地、第二段は思考作用が消えることで内心が穏やかになり、集中から生まれた喜びに満ちた境地、第三段は喜びから離れることで安楽であり、かつ気づきと理解が深まり、心が澄み切った境地、第四段は安楽もなくなり、不苦・不楽で、純粋な気づきのみがある境地である。無色界四禅に入って、第五段は対象意識が消えた境地の「空無辺処」、第六段は識は無辺であり、心が遮られない限りないものと味わう境地の「識無辺処」、第七段は「空」も心も意識せず、何もない境地の「無所有処」、第八段は限りなく意識がゼロに近い消滅寸前の境地の「非想非非想処」である。最後の第九段はすべての心の働き・想いが一切滅し尽くした境地の「滅尽定」であるとされている。ただ、「滅尽定」に入れる人(阿羅漢)になると通常人の生活はできなくなるとされている。
 ところが、第七段と第八段は釈迦が沙門修行者について修行を行って体得した境地であるが、釈迦はいずれにも満足せず、さらに修行を続けた結果、このような修行方法自体が無意味であると確信するに至り、一転して菩提樹下で禅定を行うことによって正覚し、悟りを開いたということである。そうだとすれば、少なくとも第九段の「滅尽定」などというのは全く根拠がなく無意味であるばかりでなく、沙門宗教の修行方法に後退するものである。
 現代釈迦道の立場では、そもそも禅定に「無色界四禅」以降の段階を設定し、最後に「滅尽定」という段階を設定して、禅定に九段階を設定するような捉え方自体が、禅定の終局的な境地を観念的な思量によって超越的な境地として作り出したものであると評価する。

知識と智慧
 知識とは、ものごとを識別して理解し、記憶したものである。ものごとは、その他のものごととの相対的関係を識別することによってその存在・内容・意味が特定され理解される。智慧は、ものごとの道理(ものごとの筋道)を理解し、体得したものである。智慧の完成とは、智慧に基づいて世界と自己の在り様が一体的であることを体得することであり、それは現実的な事柄であって、超越的で神秘的な仏に成る、「成仏」というようなことではない。知識は智慧の元(栄養源)であり、知識を消化吸収することで智慧が獲得される。智慧の完成に向けて知識を振りかざすことは意味がないが、知識の獲得を否定すると、智慧は栄養失調で死滅する。

涅槃(ニルヴァーナ)と煩悩
 涅槃は、ニルヴァーナの音写漢訳で、意味上の漢訳としては寂滅、入滅、滅度、寂静などがあり、また彼岸と表現されることもあるが、一般的に涅槃が用いられている。
涅槃(ニルヴァーナ)は、煩悩(クレーシャ,キレーサ)の炎が吹き消されて(ニルヴァーナ)、もの静かになっている状態を表す概念であり、苦(ドゥッカ)の原因である煩悩を断ち切ることにより苦から解放され、心の安らぎが得られた境地を意味している。涅槃(ニルヴァーナ)の本来の意味を平たく表現する言葉としては「安らい」が適切である。
 なお、解脱や悟りは、自分の心の中の煩悩をすべて断ち切ること、または断ち切った完全な涅槃(般涅槃)状態になること、さらにそれを可能にする智慧・正覚知、即ち菩提を得ることを意味し、涅槃からさらに進めた概念であるとともに、状態を表すというよりも主として行為による変化を表す概念である。また、一般に菩提を得たものは「仏」と称されるが、「仏」の概念は多義的である。
 煩悩は、心身を悩まし、苦しめ、煩わせ、けがす、「苦」の原因である精神作用であり、根源的には我執、即ち自己を実体的な存在と考えて執着すること、いわゆる無知・無明であることから生じるものである。具体的には、「三毒」と一般に称される、貪(貪欲)、瞋(瞋恚)、癡(痴、愚痴)が挙げられている。貪・貪欲は欲望にまかせて執着し貪ること、瞋・瞋恚は怒り、憎しみ、悪意をもつこと、癡・愚痴は正しい道理を知らず無明であること、と一般的に説明されている。
 具体的な記述に見ると、『スッタニパータ』[第5 彼岸にいたる道の章] の詩句(1039)に、「修行者は諸々の欲望に耽って(貪)はならない。こころが混濁していて(瞋)はならない。一切の事物の真相に熟達し(癡の克服)、よく気をつけて遍歴せよ。」とある。また、同章の詩句(1035)に、「煩悩の流れをせき止めるものは、気をつける(気づき・念)ことである、(この気づきが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」とある。この記述は、八正道の正念における気づきによって涅槃(ニルヴァーナ)が得られ、正定における智慧によって煩悩を根源から断ち切った完全な涅槃、即ち般涅槃に到達する、あるいは解脱することを意味すると解される。
 なお、『ダンマパダ』第10 暴力、133、134節に、「荒々しいことばを言うな。・・」、「こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎ(ニルヴァーナ)に達している。・・」とあり、これについて、翻訳した中村元氏は、「声を荒らげないだけでニルヴァーナに達しえる(達している)のであるから、ここでいうニルヴァーナは、後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなく、こころの安らぎ、心の平静によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」としており、涅槃の本義としてはこれが正論であろう。
 ところで、釈迦が入滅(ここでは釈迦並びに覚った人の死を意味し、涅槃の意味ではない)し、その後部派仏教が成立すると、涅槃は、煩悩の流れを防ぐことで涅槃(安らい)が得られ苦から解放されること、という捉え方から、心の中の煩悩をすべて断ち切った般涅槃(完全な涅槃)や悟りの境地と捉えられ、「安らい」から「悟りの境地や智慧を獲得した状態」に転変するとともに、「涅槃なるもの」と実体化して解されて目的・対象にされ、その涅槃に至るために障害になるものを煩悩として逆方向から捉えるようになる。
 具体的には、『パーリ仏典』増支部の「念処経」では、煩悩を悟りや智慧の獲得を目指す修行に対する障害という面から捉えて、五蓋として提示されている。五蓋とは、欲愛、瞋恚、惛眠(倦怠・眠気)、掉悔(心浮動・後悔)、疑(懐疑、疑ってかかること)である。三毒の癡(無明)が消え、代わって惛眠、掉悔、疑という実際の修行において具体的に障害となる項目が追加されている。癡の克服は修行の結果として達成されるものと解されたと考えられる。
 また、説一切有部の世親による『俱舎論』(4-5C)の「随眠品」では、根本煩悩として六随眠が提示されている。随眠の随とは有情(生き物)に随遂(随って働く)すること、眠とはその働きが微細で知り難いことを意味している。唯識では随眠は煩悩の種子(煩悩の潜在的在り様、煩悩を生じる可能力)として捉えられている。六随眠とは、具体的には貪、瞋、痴(無明)、慢(慢心)、疑、見(悪見)である。ここでは三毒に慢、疑、見が追加され、元来の煩悩と修行における障害の両方が総合的に把握されている。
 因みに、この六随眠が細かく分析・展開され、終局的には108の煩悩として提示されている。そのアウトライン(輪郭・大要)を説明すると、まず六随眠が起きる対象が四諦と(苦諦、集諦、滅諦、道諦)と五塵(色、声、香、味、触)であるとされている。四諦に対しては、六随眠の見が身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見の5つに分けられて六随眠が十随眠に展開された上で、三界(欲界、色界、無色界)において各諦のそれぞれに対してこの十随眠の内の適合した随眠が起こり、三界でそれぞれ32、28、28、計88の随眠が起こるとされている。五塵に対しては、欲界では六随眠の中の貪、瞋、痴、慢の4種、色界及び無色界ではさらに慢を除く3種、計10種の随眠が起こり、合計98の随眠が起こるとされている。さらに、六随眠とは別にこの六随眠の中の貪、瞋、痴、疑の4種から派生する十纏と言われる十種の煩悩、即ち無慚(むざん)、無愧(むき)、嫉(しつ)、慳(けん)、悪作(あくさ)、眠(みん)、掉挙(じょうこ)、惛沈(こんじん)、芬(ふん)、覆(ふく)があるとされ、かくして合計108種の煩悩があるとされている(長南瑞生氏のネット上の記事参照)。ただ、このような列挙主義を、緻密で詳細な分析として高く評価する向きが多いが、観念的に弁別した識別知を分析・展開した思弁的な構築物であってその議論は戯論と言わざるを得ない。
 なお、『スッタニパータ』でも時代の下った記述内容と考えられる、[第1  蛇の章] の詩句(10~13)には、「・・「一切のものは虚妄である」と知って、貪りを、憎悪を、迷妄を離れた修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。・・」との記載が見られ、ここでは「三毒」の内容が明確に提示されているが、その一方で到達する境地は「安らい」としての涅槃ではなく、涅槃が般涅槃をもさらに超えて空の世界観に基づく「不生不滅」の境涯を意味している。
 また、ブッダゴーサ(上座部仏教注釈者、5C)は、釈迦は渇愛を川に、煩悩をその暴流に喩え、暴流を渡って彼岸に至ることを涅槃と位置付けたとし、煩悩を、欲暴流(欲界の五欲に執着)、有(生)暴流(色界無色界の見惑・思惑)、見暴流(三界の見惑・誤った見解)、無明暴流(四諦などに対する無知)の四暴流とし、この四暴流を断つ道は八正道であると釈迦が述べているとしている(パーリ仏典、相応部、ジャンブカーダカ相応、暴流問経)。
 一方、衆生の済度を前面に押し立てる大乗仏教が成立するのに伴って、涅槃は、上に触れたように、般涅槃(完全な涅槃)を得た状態、完全な解脱を意味するようになる。その涅槃は、正覚知・智慧・菩提を得て実現するものであり、菩提を得ている状態を仏とみなすとともに、菩提は仏の智慧であるとし、涅槃は仏の在り様であると解されるようになる。
 この大乗仏教では、涅槃の境涯に至るには、菩薩として六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を実践し、仏の智慧・正覚知・菩提を得、仏になる(成仏する)ことであり、六波羅蜜が主たる実践となっている。その中に煩悩を滅することも包含されているということであろう。
 さらに、このような仏が一旦登場すると、仏は定住即ち永久不変の実在としての「仏」として定立されることになり、涅槃は「不生不滅」の状態になることとなる。かくして、そのような涅槃は実際には肉体の完全な消滅、「死」によって完結することから、涅槃を死と結びつけて理解・解釈されるようになる。なお、涅槃の状態にある目覚めた人の死を入滅とし、釈迦の死は特に大般涅槃と呼ばれている。
 また、大乗仏教において、涅槃と煩悩が前面に取り上げられているのは「涅槃寂静」と「生死即涅槃」と「煩悩即菩提」という言葉とその考え方である。「涅槃寂静」は、仏教が他の教えと根本的に異なることを示す旗印・法印として、本来の三法印に対して追加されて四法印とされ若しくは「一切皆苦」と差し替えられて三法印されたもので、「悟り(涅槃)の世界は、生死を超えて一切のとらわれから解放された静やかな安らぎの境地、時間の流れを超えた真の安らぎ・絶対平安の境地である」ということ、「生死即涅槃」は、「生死という差別相における迷いと涅槃という悟りにおける平等心は相即して存在するものである」ということ、「煩悩即菩提」は、「煩悩と菩提は而二不二の関係にあって相即して存在し、両者はともに真如(仏)のあらわれである」ということ、など他にも色々説明されているが、その根底にある考え方は、「空」即ちあらゆる「ものごと」は実体のない在り様をしており、その在り方が、現実に実在しているものと考えてその中で生活している「ものごと」そのものであるという考え方、「色即是空」「空即是色」という考え方である。それに基づいて「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」であるとされ、生死ということ、生とか死とか言われるものは涅槃の境地においてはいずれもものごとの在り様そのものであるとし、また煩悩も仏の在り様の現れであって、その煩悩を通して智慧・菩提を得ることができるとするものである。
 かくして、涅槃の理解のこのような転変とともに、苦から脱するために断ち切るべき煩悩という捉え方が実質的に等閑視され、その一方で衆生に対する説法材料の人生訓として用いられ、人間には多くの煩悩があり、各々の煩悩を除滅することは実際には困難であるとしても、それを目標として生きることが求められているという説法が行われている。
 このように大乗仏教では仏が立てられることで、涅槃は、「安らい」ということから仏の在り様・「不生不滅」等々に高められ、仏の智慧(菩提)を獲得することで、現実には不可能な仏という超越的な存在になれるとされ、その結果涅槃がある意味必然的に「死」と結びつけられて死後の世界で安楽に生きることに転化され、仏教はそのような死後の世界を質にとって現世の人々の心を手中に収めて善導しようとするものになっている。
 現代釈迦道の立場は、このような大乗仏教を拒否し、釈迦が切り開いた道をほぼ継承する。即ち、煩悩(具体的には三毒と称される貪、瞋、癡)を断ち切ることが苦から解脱する道であり、その道は四諦八正道、特に八正道の正念における気づきによって煩悩の流れを止め、正定における智慧の獲得によって煩悩の生起を完全に遮断して再び生起することがない境地(完全な涅槃)に入ることができるという道である。
 但し、釈迦仏教における苦を脱した涅槃を求めるということは現代釈迦道の到達点ではない。現代釈迦道において、正定によって得られる完全な涅槃及び癡(無明)から脱する智慧というのは、大乗仏教における超越的な存在としての仏の在り様とその智慧というようなものではなく、涅槃とはあくまでも「安らい」が安定して定着し煩悩を生起させることのない境地であり、智慧とは世界が縁起という在り様をしていて全世界のあらゆるものごとが相互関係として存立していることの認識・体得を意味する。煩悩はそのような智慧の獲得を阻害し、涅槃は智慧を獲得するために必要な条件を整える事柄である。即ち根本的に自我を実体視して我執にとらわれた状態ではその色メガネを通してしか世界が見えず、世界及び自己の在り様を的確・適正に捉えることが不可能であり、それと同時に涅槃の境地であることによって「ものごと」の在り様を色メガネなしに捉える条件が整うということである。
 かくして獲得された智慧に基づくことで、人間を含めてあらゆる存在は、実体的なものとしてあるのではなく、世界との関係の下でその関係性において、即ち諸関係の項の一定の意味ある纏まりとして存在としていることを現実的に認識・体得することができ、その在り様に沿って生きることで安らかにかつ生き生きと充実して生きて行くことができると考えている。
 最後に余論になるが、煩悩の貪、瞋、癡は、 道元『典坐教訓』の三心、老心、喜心、大心と対義関係にあると言える。即ち、老心は慈悲心のことであって貪・貪欲とは対極にあり、喜心は事に当たるに喜びの心をもって行うということであり、そうすれば怒り・憎しみの心が生じる余地はなく、喜心は瞋・瞋恚とは対極にあり、大心は大山のようにどっしりと動じず、大海のように広(寛)い心を持つということであって、それは自己が世界の一部として世界そのものであるという智慧に基づいて生じるものであり、また逆に大心を持って行動することによって智慧が体得されるという関係にもあって、癡・愚痴とは対極にある。かくて、煩悩を断ち切り完全な涅槃に到達するには、日常的に三心をもって行動することが効果的であると言える。