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Ⅵ.4 坐行

 次に、以上のようにして理解された世界の在り様の中での自己の在り様を、坐禅という身体技法を用いて観想し、世界における自己の在り様を見出す坐行について見て行くことにする。

Ⅵ.4.1 座禅の要点

 坐行は、禅宗における坐禅を原点とし、その考え方及び技法に依拠したものであるが、その一方で考え方に根底的な相違があるため、新たな考え方を提起することになったものである。そこで、まず原点である禅宗と坐禅の要点について見ておく。
禅宗の始源は、仏教を開いた釈迦が菩提樹下で悟りを得た禅定にある。釈迦が悟りを開いて説いた四諦・八正道の中で、涅槃に至るためには智慧(正見)を得ることが必要で、それを実現するため正念(観)と正定(止)の実践が説かれている。
 このような釈迦の坐禅を直に受け継いだのが大(摩訶)迦葉とされ、その後代々継承され、達磨大師に至って中国に伝えられたとされており、中国において仏を立てた大乗仏教でありかつ坐禅によって悟りを求める一宗派としての禅宗が成立することになった。
 禅宗においては、坐禅によって正覚を得ることを目指して修行するが、その際に人は元々仏性を持っていること(如来蔵思想)を前提として、その仏性に気づくために坐禅を行い、それによって本来持っている仏性を顕現させることができるというのが共通の基本的な考え方である。このように禅宗は、「行そのものの中に仏が具現する」という単純で簡潔な教えであることから、端的に安心・自由が得られることを求めていた世情に合致したことによって盛行することになった。
 また、禅宗は、教義の継承ということよりも、師匠から弟子に直接受け継いでゆく師資相承を主に標榜する宗派である。それは達磨の四聖句とされる「不立文字」(悟りの境地は文字や言葉で伝えられるものではない)、「教外別伝」(悟りの神髄は経典による教えとは別に体験によって伝えられる)、「直指人心」(師が弟子に人心の仏性を直に指し示して伝える)、「見性成仏」(仏性を見ることで仏となる)という教えに良く表れている。その結果、教義が確定されずに多岐にわたって展開し、多くの宗派が登場することになった。
 一つの代表的な宗派の臨済禅では、成仏することを求めるが、それは諸々の自己をすべて捨て去った後の絶対普遍の自己が仏性として存在することを了知した上で、ありのままの現象をありのまま受け入れること、「自他不二」の境地になることによって成仏できるとしている。臨済禅では、そのような状態の「成仏」を目標として、公案禅あるいは看話禅と呼ばれる修行法が用いられる。それは祖師たちが上記境地に到達するに至った言葉や行状を問題として集めた「公案」を用い、坐禅修行において「公案」に取り組むことで悟りを得るというものである。「公案」は、分別知に基づく思量では答えることが不可能な設問形態となっていて、問題に答えることが目的ではなく、それを考え抜くことで祖師の悟り体験を追体験するように構成されたものである。即ち、問題がよって立つ根拠となっている境地を知ることによって初めてそこから問題の意味や所在が分かるというような設問形態であるから、問題を思量して分かるものではないということであり、非効率で無駄な時間を費やすことになると思われる。尤も、伝統的な職人がその技を体得する方法に見られるように、祖師の境地を本当に体得するために必要な過程であるという見方もあるが、やはりその境地を知った上で、例えその時には本当には理解できていなくてもある時突然体得することができ、その方が無理無駄のない良い方法と思われ、「公案」は坐行においてではなく、智行の抽象相の参究において参学するものであると考える。
 もう一つの代表的な宗派の道元禅(曹洞宗)では、仏になること(作仏)を求めるのではなく、既に自己の内に存在している仏としての修行(行仏)を行うとしている。すなわち、自己の中に実体的な「仏」なるものが独立して存在しているのではなく、自己は仏性を有するものとして存在しているということを前提にして、坐禅によって自己の仏としての在り様を現成するとしている。坐禅において、仏道を習うということは、自己を習うことであり、それは自己を忘れること、すなわち世界中の事象(「万法」)に自己が証明されることであり、自己の身心が脱落すること(「身心脱落」)であるとし、それは世界のあらゆる事象において自己の存在が証明されることで、自己という枠組みが消え去った状態であり、この状態はほぼ「悟り」の状態ではあるとしている。しかし、さらにそれは修行の終着点ではなく、この状態を保持するために修行は継続(行持)されるものであるとしている。
 このように、道元禅の要点は「身心脱落」即ち自己の消滅であると同時に世界と融合した自己の実現であるという境地に至ることを修行の目標としている。現代釈迦道における坐行も基本的にほぼこのような境地に至ることを目標としているが、道元禅では仏性を有するが故にそのはたらきによって「悟り」の状態になり得るとされているのに対して、現代釈迦道においては仏性の存在を埒外にするという点で異なっており、後で詳しく検討する。

Ⅵ.4.2 坐行の概要

 坐行は現代釈迦道における坐禅行であるが、大乗仏教における坐禅行において前提とされている仏の存在に関知しない脱仏した坐禅行であるということが要諦である。そこで、ここでは大乗仏教のそれを坐禅行、現代釈迦道のそれを坐行と表現して区別することにする。というのは、仏を前提にする坐禅行においては、坐行において一体的な要素となるべき智行における洞察内容が内的な要因にならないからである。
 ここで、坐禅行において必要とされている参学(智行)について見ておく。前に見たように、達磨においては経典によって道の大本・根本義を知り、「人はすべて真実の本性を持っている」ことを確信する智慧を得ることを求め、その智慧をもって道に入り坐禅するとしている。道元においても、坐禅行は「修証一等」であるということだけでなく、『永平広録』巻8「法語」の法語11「全体本然、誰逗処所」で、「教」とは「行」と「証」を説くことで、「教・行・証」の三者は平等一体であるとし、何れも法の自らのはたらきとしてあると述べており、「行(修)」「証」と共に「教(智)」を坐禅行の重要な要素として取り上げている。坐禅だけすればよいのではなく、参学によって「教」を得る必要性を述べている。
 但し、達磨の智慧や道元の教(智)は、現代釈迦道の智行とは異なって、経典や祖師たちの公案を参究することによって、人はすべて真実の本性・仏性を備えていると知り、それがどういうことであるのかを了解することを意味している。結局、坐禅行の考え方は、宗派によって多少の相違はあるが、自己には超越的な仏のはたらきが貫いているということを前提にして、参学によってその仏の存在とそのはたらきを確信した上で坐禅行を行うことで自ずから仏のはたらきによってそれを自覚することができるというものである。そうして、仏のはたらきが自覚されることで自己の在り方が根本的に変容し、その時に真理そのもの(仏)が顕現するとし、それを「さとり」としている。また、仏やそのはたらきは、分別知による思慮の及ばないものであるとし、坐禅行においては思量することが否定される。

Ⅵ.4.3 身体技法

 次に、坐行における身体技法とその作用やそれが持つ意味について、現在のところこれで良いのではないかと了解しているものを説明する。これは、道元の『普勧坐禅儀』(『永平広録』8巻に収載)、『正法眼蔵』11巻「坐禅儀」を中心として、南宗禅以前の智顗の『天台小止観』や、沢木弘道の『坐禅の仕方と心得』、ネルケ無方の『迷える者の禅修行』、南直哉の『超越と実存』、藤田一照の『禅の教室』や『現代坐禅講義』などの一般向けの書籍や、インターネット寺院「彼岸寺」による坐禅アプリ「雲堂」などを参考にして実際に坐禅を試行し、自分なりに納得したものである。なお、「身体技法」という捉え方(作法というより的確であると思っている)は南直哉氏に依る。
 まず、坐蒲(直径30cmを超える程度の丸型で、高さのある坐禅用の座布団)を用意し、整頓した部屋の壁に向き合った位置に坐蒲を置く。そして、坐蒲の上に腰を下ろして胡坐をかき、右足を左脚の腿の上に置き、次に左足を右脚の腿の上に置いて結跏趺坐を組み、それができない場合は、右足は左脚の腿の下に置いたままで踵を坐蒲に近づけ、左足を右脚の腿の上に置いた半跏趺坐を組んで坐る。次いで、両手をその掌を上向きにして各々腿の上に置き[雲堂]、上半身を最初は大きく徐々に小さくなるように左右に揺身し、左右に傾かない真直な姿勢を探してそこで静止する[藤田本]。
 この状態で、中軸柱となる背骨の下端部の骨盤を高い位置で支持し、そこから斜め前方両側に伸びる両支脚の先端部を床面で支持した立体的な三点支持構造の強固かつ不動の土台が形成される。また、この時、尻の穴を思い切り後ろに突き出した姿勢[沢木本]を意識することで、骨盤が後ろに傾かずに真直ぐに立った姿勢となって背骨が真直ぐに立ち上がり、腰椎部分に負担がかからず、長時間その姿勢で坐っても腰が痛くなることはない。また、この姿勢で背骨の下方部に位置する肋骨を開くようにすることで、背骨が真直ぐに伸びると共に、腹式呼吸時の横隔膜の上下動が円滑になされるようになる。かくして、身体下部が強固な土台を形成し、そこから中軸柱が真直ぐに立ち上がっている(実際には背骨は適切な湾曲を呈している)とイメージされる姿勢で安定する。
 次に、必要に応じて星空を見るように空を仰いで、背中、胸、肩、首の筋肉を脱力し、上半身を気持ち良くリラックスした状態にする[雲堂]。次いで、元の姿勢に戻って息を大きく吸い込みながら肩を若干後側に(前側にならないように)引き上げた後、息を吐きだしながら肩の力を抜く[雲堂]。すると、人体の仕組みによって、肩が前方に丸まった「巻き肩」姿勢の人の場合でも、自然に胸が開いて肩の力が抜けた状態となる[藤田本]。この状態で肩はいつでも瞬時にフルパワーで何れの方向にも動かせる状態であり、武道の「構え」に共通する。
 次に、右手の掌の上に左手の掌を乗せ、両手の親指の先端同士を紙一重で合わせて正面から見て卵形の空間を形成する法界定印を結び、それを丹田にぴったりと当てて動かないように位置決めする。この丹田に押し当てた法界定印によって土台の姿勢を安定させることができるとともに、法界定印と肩が腕で連接されていることで胸を開いた状態の肩の位置が安定し、かつ親指の先端を強く突き合せずに紙一重としていることで肩の力が抜けた状態も保持される。
 次に、「項を以って背に差うことがない」[道元『弁道法』(『永平清規』)]ように、即ち項が背骨と真直ぐになるように、頭部(顔面)を真直ぐ直立させて顎を思い切り後ろに引く[沢木本]。このとき、側方から見て耳が肩の真上に位置し、正面から見て鼻が丹田の真上に位置する。この状態で、首及び肩の力がいずれの方向にも力が抜け、頭部が中軸柱の上端にトンと乗って前後左右全周方向に拘束されずフリーであるように意識する。そうして、目や瞼を動かす筋肉を完全に脱力する。すると自然に、目は閉じることなく、斜め下向きに開いた半眼状態になる[藤田本]。このとき、目は対象物を見るものではなく、頭頂連合野を世界(法界) に対して開く窓であるとイメージする。目を閉じず、軽く開いたまま前方下方を見るというのではない。
 次に、口から息を思い切り深く吐き出し(呼)、間をおいて新鮮な空気を鼻からゆっくりと吸い込み(吸)、体全体を新鮮な空気で満たすというイメージの呼吸動作を複数回行うことで息を整える(調息を行う)。調息が終わると、上下の唇及び歯を合せて口を閉じ、さらに舌を上顎にしっかりと当てて自然な呼吸に任せる。舌を上顎に当てることによって、目が下向き半眼状態であることで、どうしても目で対象物を見てしまい、頭部が前傾するのを抑止することができる。以上の調息動作及びその後の呼吸は、上半身の肋間筋で肋骨を動かして胸腔を広げる胸式呼吸ではなく、下半身の横隔膜を上下動させる腹式呼吸で行う。腹式呼吸は副交感神経を優位にしてリラックス効果がある。又、それと同時に口角を上げて表情を柔和にし、心持を軽やかにする。そうすることでさらに効果が高まる。
 この坐行中に働く筋肉は、主として尻を後に突き出して骨盤を立て、横隔膜を上下動し、顎を引き、口唇を閉じて舌を突き出すなどの働きをする内筋(インナーマッスル)であり、外筋(アウターマッスル)は内筋に従属してその動きに調和するように働くだけにし、力が入らないようにする。
 なお、実際問題として、坐っているといつの間にか何らかの思量を行っており、それに伴って僅かであっても、顔面が前傾するとともに顎が前に突出し、上半身が前傾した姿勢となり、肩に力が入るとともに胸式呼吸になり、さらに息をつめた状態になっていることがある。このような状態になっていることに気づいた時には矯正すればよいが、ただこのような場合単に上半身の姿勢を正すのではなく、土台である下半身、骨盤の傾きに必ず影響が出ているので、下半身から上半身に向けて順次矯正する必要がある。
 坐行を終了する時は、法界定印を解いて両手を膝の上に置き、最初は小さく徐々に大きく揺身し、前後に屈伸し、左右にねじった後、結跏趺坐を解いて足の脛とふくらはぎをマッサージし、その後立ち上がって平常動作に復帰する。
 以上の身体技法の作用は次のようなものである。一般的に人間においてはその身体の状態と心の状態は強く連携しており、このような身体技法を用いて一定以上の時間、安定的に静止した体勢を取ることによって、心の過度な高揚、浮付き、散漫、逆に過度な沈鬱のような心の不安定な動きが鎮まって静定・集中した、いわゆる「止」の状態を得ることができると考えられる。また、科学的にそのように言えるか否かは分からないが、実際に感じ取ったイメージを私見として述べると、その姿勢で斜め下向きの半眼状態に維持することで、頭脳の高度な知的作業を処理すると言われる頭頂連合野が覚醒状態となって活発に働いていることが実感される。頭頂連合野では、分別知に基づいた論理的思考を超えた深い思慮・静慮、いわゆる「想」を実践することができ、さらに肩の力が抜けていることで、思慮が凝り固まらず、そのため世界(法界)に開かれた窓を通した広い視野のもとでわずかな兆候や変化に対する気づきを実現した、いわゆる「観」の状態を得ることができ、全体として「止観」による「観想」を実践することができると思われる。
 最後に、以上の身体技法の実践はどういうことを行っているのか、その意味について考えてみたい。打坐中は身体の丹田を中心とした身体下部が充実し、頭部を除いて身体上部は空虚となって下部の動きに従属して動くだけである。元々、動物という形態の生命体の誕生時には、現在身体下部の丹田に位置している腸が、生命体の中枢として全体を統御する機能を備えていたのであり、腸が生命体の本拠であった。生命体が発展する過程で統御機能を司る脳髄が分離独立し、さらに目、耳、鼻、舌などの感覚器官とともに頭部に集約されたことで、頭部が生命活動を統御する正にヘッドクォーターとして形成された。動物という形態の生命体がこのように形態発展するのに伴ってその統御機能が飛躍的に発展し、頭部の脳髄(頭脳)が多彩かつ高度な統御機能を持つに至った。この頭部と丹田のある身体下部とは脊髄(中枢神経)を内蔵する背骨によって連結されている。
 このように生命体の発展により頭脳が統御本部となったが、その本源的な本拠が丹田にあることは生命体である限り変わりはない。丹田が生命体の本拠であるのに対して、頭脳は統御機能を集約した出先機関・支所という関係にある。坐行の身体技法は、頭脳の働きを、言ってみれば生命体としての本拠である丹田に帰郷・里帰りさせるものであり、それによって「生きている」即ち「生きて在る」という生命体のゼロポイント[南本]に一旦帰るとともに、そこから世界における自己の在り様を見出して行くのに最適の身体技法であると言える。なお、「生きて在る」とは、縁起として在るということであり、実体としてあるのではないということを意味している。

Ⅵ.4.4 坐って何をする

 坐禅行において「坐って何をするのか」ということについて、まずは、『普勧坐禅儀』では、「放捨諸縁、休息万事、不思善悪、莫管是非。」(「日常生活上での諸々の係わりを放ち捨て、それに係わるすべての心の働きを休息し、日常的な価値観に基づいて善悪を判断したり、是非を問うたりすることをしてはならない。」)ということから始まる。また、『正法眼蔵』の「坐禅儀」では、同様に「諸縁を放捨し、万事を休息すべし。」としているが、その後に引き続いて「不思量」について説いている。
 実際には、静かに坐っていると、普段から気になっていたことや忘れていたことまでが次々と心に浮かび、考えてしまっているというのが実際であり、何も考えないようにし、考えることを止めるということは極めて困難であるというのが実体である。このような場合、考えているということに拘らず、何かを考えているということに気づけば、それを放ち捨てるということを繰り返せば良く、そのうちに自然に日常的な係わりや価値観にとらわれることは無くなるとされている。この状態は、実体的な存在としての「我」は無いという仏教本来の「無我」を意味するものではないが、「我を張る」とか「我が強い」というような意味での「我」を無くした「無我」の状態になっていると考えられ、また同じく「私」というこだわりが無くなって、「私」というような在り様を手放した「無私」の状態とも解される。これら「我」「私」というのは、自らの価値観に執着して生活上の係わりを持つことによって生じたものであるからである。そして、この「無我」「無私」の状態においても、「自己」は活きていると考えられる。
 坐禅において、このような「無我」「無私」状態になるのは、坐禅行の入口段階である。坐禅行では、ここからさらに先の段階の所謂「悟り」の状態、若しくは本来の「自己」の在り様の現成に進んで行く必要がある。それでも、この状態に浸ることによって、日常的なストレスやフラストレーションを一定時間忘れることができ、その結果病んだり疲れたりしていた心をリフレッシュすることができ、心の健康を取り戻すことができるという効能が得られる。肉体的に過負荷状態が続くと遂には動けなくなるが、一定時間休息すれば自ずと回復するのと同様に、心の負荷が大きい状態が続くと心が病むことになるが、一定時間休息すれば回復できる可能があるということである。一般の生活者が行っている坐禅行は、このような効果を求めて行われていることが多いと考えられが、それ自体でも意味のあることである。
 ところで、このような意味の「無我」「無私」は、忘我の状態においても得られると考えられる。忘我とは、何かに夢中になり、熱中・集中することで「我」を忘れている状態を意味している。しかし、この忘我の状態では、「我」というものを無くすのではなく、「我」はそのままで「我」から離れて別の世界に移行した状態であり、さらに周りも見えない状態になっているというものである。そのため、忘我の状態から醒めると、元の「我」が再現し、周りの世界も元の再現し、何も変わらないということなる。
 このような忘我状態は、無意識に何か集中しているときに自然に浸っていることがあるが、何かを得ようとして意識的に忘我の状態になるということであれば、例えば契印を結び、また木魚や太鼓や鉦を叩くなどの一定の動作・所作を繰り返し、マントラ・念仏・題目などの単純な唱言を繰り返し唱えながら、仏を表象する具体的な対象物や火などを見て心に仏を思い浮かべて、身口意を意識的に能動的に活用すれば、容易に忘我状態に浸ることが可能である。このような忘我状態に一定時間浸ることでも、精神的なリフレッシュ効果が得られることも明らかである。
 さらに、忘我状態になる目的として超越的な存在と一体化することを想念し、強く思い込んで集中することによって、心理的・精神的に異常な高揚状態に陥って恍惚状態、脱我状態の所謂「エクスタシス」の境地になり、思い込みが現実化したような言説や行動を取ることがある。また、霊的なものがのりうつった「憑依状態」のシャマンとなる例もある。
 しかし、このような忘我状態の宗教的形態において、高揚した悦楽状態になることを成仏したものと錯覚しあるいは意識的にそのように思い込むことで、世間的な権威を得ようとする例もあるが、所詮はその状態にある限りの錯覚であり、仏道や釈迦道とは無縁のものである。
 坐禅行において、上記の「無我」状態からその先にどう進むかということについては、二つの方向若しくは種類があるように見受けられる。第一は、安定した「無我」状態によって成立した「自己」、言わば世俗的な価値観に執着せず解放された「純粋な自己」とも呼べるような自己が考えるべきことに集中して他のことを放ち捨てるということである。第二は、全く何も考えずに只坐るということであり、そのため必要に応じて考えることが不可能な事態に肉体的・精神的に追い込むということである。
 第一は、『正法眼蔵』の「現成公案」の第四段落で示されている「仏道を習うということは自己を習うということである。自己を習うことは自己を忘れることである。自己を忘れるとは万法に証せられる(悟る)ことである。万法に証せられることは自己及び他己の身心を脱落させることである。この悟りの跡形(悟迹)は消えてなくなるものであり、この跡形の消えて無くなる悟りを永遠に求め続けなければならない。」ということである。
 ここでは、明確に自己を習うこと、即ち自己の在り様をつぶさに検証することが挙げられ、そのように自己の在り様を検証しその在り様を観想することで「自己なるもの」という在り様が消えて忘れられ、世界の在り様(万法)そのものに一体化した在り様として証せられ、自己とか他己とかいうような身心が脱落した「悟りの境地」を体得した状態が得られることが説かれている。さらに、その悟りはすぐに消えるものであるので、永遠に求め続けるべきことを説いている。
 第二は、『普勧坐禅儀』や『正法眼蔵』の「坐禅儀」で示されている「兀々坐定、思量箇不思量底。不思量底、如何思量。非思量、此乃坐禅之要術也。(兀々と坐定して思量箇は不思量底である。不思量底を如何思量するか。それは非思量である。これがすなわち坐禅の要術である。)」ということである。『永平広録』巻4の279回上堂「九月初一の上堂」 では、端的に「思量箇非思量」(思量するところは非思量、即ち非思量という思量をする)と記され、また『永平広録』巻7の524回上堂「源亜相忌の上堂」では、「兀々底思量恁麼、思量箇不思量底。(坐禅の奥底で何を思量しているのか。思量箇は不思量底である。)」という書き出しになっている。なお、その内容は禅僧の伝記を収録した『景徳伝灯録』巻14の「薬山惟嚴章」を出典としたものである。
 ここでの言説は、坐定で思量するところは、思慮が及ばず、思量することができない「不思量」の奥底であるとし、坐定では分別知や言語に基づく思量を否定するとともに、思量不可能な「不思量」の奥底について、「非思量」と言うべき思量を行うということを説き、この「非思量」が坐禅の要術であるとしている。
 この「非思量」ということについては、分別知や言語による思量を否定していることは明確であっても、「非思量」ということの内実は非常に分かり難い。「非思量」とは、分別知や観念を実体化しない非言語的な「思量」であるということ以上の実質的な内容は不明である。「非思量」とは、「非主体という主体の思量である」という解釈が提起され、また「思量に非ずということではなく思量を超越するということである」、さらに「非思量という絶対の境涯」というように「悟りの境地」とするような解釈すら為されている。
 このように「非思量」の内実の解釈は色々あっても、はっきり言って、分かったようで分からず、結局のところは、余計な考えを巡らせることはするなという「不思量」に行き着くことになる。この「不思量」ということの根底には、如来蔵思想に基づいて人あるいは万物は仏性を備えているという考え方があり、その仏性は思慮の及ばないものであるということ、及び俗世界で身についた、言語による分別知に基づく考えや価値判断などの染汚を取り除くことで、思慮の及ばない仏性のはたらきによって自ずから仏性が現成するという考え方が前提としてあると見れば了解できることであり、したがって不思量で仏性が現成すると考えた方が分かり易いと見られる。
 この不思量で仏性が現成する点に関して、『正法眼蔵』の「坐禅箴」では、万法乃至は仏性の現成ということについて「現」と「成」に分けて説き、「不思量にして現じ、不回互にして成ずる。不思量にして現じる、その現は自ずから親である。不回互にして成ずる、その成は自ずから証である。その現が自ずから親であることを嘗て染汚するものは無い。その成が自ずから証であることに嘗て正偏の別はない。嘗て染汚するものの無い親、その親は無委にして(詮索する必要なく)脱落である。嘗て正偏の別のない証、その証は無図にして(意図することなく)巧夫である。」というように説かれている。すなわち、「不思量」にて自ずから親しく染汚するものなく現じて詮索することなく身心脱落となり、相互の関係なしに自ずから正偏の別のない証として成じて意図することなく修行の巧が積まれて行くと説かれている。
 また、『普観坐禅儀』においては、「停心意識之運転、止念想観之測量」(心におこるあらゆるはたらきを停止し、心に湧き上がるありとあらゆる思いや何を考えているさえも心の中に置かないこと)を説いている。
 このように坐定において「不思量」によって仏性が現成し、悟りの境地に至るということであれば、参学の必要性は説かれていても、それの持つ意味は無意味とは言わないまでも極めて限定されたものになる。要するに、仏の超越性を認めてそれに専ら依存することと、さとりは思慮の及ばないものであることを確認することでしかないということになる。
 さらには、坐定における「不思量」という観念がそれ自体として実体化されて拡張解釈されるようになる。即ち、坐定によって言語によって分別秩序づけられた自己や世界に対する了解を喪失し、言語に基づく思考の限りない停止に導き、完全なる休息状態となり、さらに自他・内外の区別や方向感覚なども崩壊し、さらに進むと視聴覚などの感覚が融合して自意識が無効状態になるとされる。さらに、人によっては意識がほとんど無くなり、呼吸も微かに行われる程度になって仮死状態になり、それが所謂「滅尽定」という段階で、そうなって自己が滅して超越した仏性が立ち現れると言われることがある。
 しかし、沢木興道は、坐定において「意識はあくまで活々としておくことだ。」と喝破し、意識を無くすということを明確に否定している。
 現代釈迦道の坐行においては、こういう訳の分からないものを受け入れることはできない。こういう訳の分からないものに陥って行く理由は、「仏性」の理解による面が大きいとは言え、実際問題として通例では、不思量にて仏性が現れるということを体験することができず、またそれを担保する仏のはたらきの実効性を確認することができないためであると推量される。修行僧として数十年にわたって専業的に修行することによって、通例を超えて「不思量にて仏性が現れる」ということが本当にあったか否かは「不知」であるが、たとえ稀有な例としてあったとしても、日常生活を営む衆生にとっては全く意味の無いことである。

Ⅵ.4.5 自己をならう

 坐行においては、上記坐禅行の第一の方向に進むこと、不思量ではなく、自己を習うこと、即ち自己の在り様を観想・思量し、最終的に自己の(本来の)在り様を見出すことが行の内容である。
 その思量に際して重要なことは、観念を実体であるかのように認識した上で論理的に思考することに集中し、それに凝り固まってしまうのを避けなければならないということである。観念や概念に基づいて思量する時には、その観念・概念が存立する状況や有効に成立する条件を十分に理解し、観念・概念の限界を十分に認識している必要がある。そうでないと、奇妙な結論に至る場合が生じることになる。例えば、人間という観念・概念は「人間なるもの」を想定してそれが実体的に存在するとし、それを「人間」と名付けたものと考えられることが多いが、そうではなくて、幾多の個々の個体としての人間に共通する諸関係の特性を概念的に把握したものであり、かつそのように概念化してとらえて取り扱うことが適正かつ有意味である限りにおいて成立している概念であるということである。例えば、「人間らしく真っ当に生きよ」と言われることがあるが、何をもって人間として捉えているか、その捉え方の適正さが明確にされていなければ全く無意味である。
 「自己をならう」に当たっての「自己」という概念についても、同様に「自己なるもの」が実体的なものとしてあるということではない。「自己」として認識しているものは、抽象相としては、智行で見たように、幾多の関係の項の意味ある纏まりとして一定の自立性をもって存立しているものであり、それらの関係を解き外して行くと最終的に何も残らない存在態様としてあるものである。具象相としては、日常生活を営んで実存している個別的な人間としての個人であり、現存する社会システムの中で生活する上で幾多の諸関係との係わりを持ち、その関わりの中で形成された自らの価値観に基づいた行動規範に則って実践することによって社会システムの一端を担って生活し、実存しているのである。
 また、自己の在り様を思量・検証するに当たって、その思量過程の全体を通底する基本は、特定の事柄を「本質」として定立し、「真理」と思い込んで全体を解釈しようとすることなく、自己の在り様の全容を常に観想することであり、その基本に常に立ち返ることが必要である。観想の「観」とは、とらえる対象の「ものごと」を固定的にとらえることなく、全体的に広くとらえてわずかな動きや現れにも注意を向けてとらえることを意味し、「想」とは、分別智でとらえる思量ではなく対象全体に深く思い入ることを意味している。坐行において、目を閉じずに開いたまま視線を斜め下方に向けて観想することは、「観」「想」の状態を確保して思量を凝り固まることなく活用することを担保するものであり、目を閉じることで眼前の世界から離れ、静かに考える瞑想とは異なっている。
 かくして、具象相の最も表層にある自己が、そのままの状態で観想・思量して自己の(本来の)在り様を見出すと言っても、日常生活の係わりや固定観念となっている価値観が妨げになって自由な思量による検証が不可能である。そこで、坐行の最初に行う、諸縁を放捨し、万事休息し、価値観を排して「無我」になるということが、思量するための前提条件を整えるという意味で入口段階として必要となる。それと共に、智行によって明らかにした抽象相から具象相に至る世界の在り様が、自己の在り様を思量する上で導きの糸としての作用を果たすことになる。
 自己の在り様を思量することは、智行によって獲得した世界の在り様に基づいて思量することである。そうすることにより「自己」と考えているものは世界の在り様の一具象相として生きている、即ち世界の在り様としてあり、自己なるものが実体として存在するものでないことを見出すことになるからである。世界の在り様が自己の在り様として現成していることを実体的に見出すということである。
 現に「自己」が存在しているのは、生物学的には父と母の子として生まれたことによるのであって、その父母も同様であり、それを遡及すれば人類、生命、最終的には宇宙の誕生に連なっているということになる。かくして全宇宙の成立過程を受けて存在している現在の宇宙を構成し、それを担っている一構成要素として自己は現存しているということである。こうしてこの世に自然内存在として誕生した「自己」は、誕生した時歴史的地理的に成立し現存していた社会システムの中で歴史内存在として成長し、社会システムを担う一構成要素として現存している。
 このように存在している「自己」の在り様の具象相は、まさに各自に個別的であって、一般論として追究できるものではなく、各自が坐行を行う中で見出すものである。
 かくして、坐行によってその在り様を見出した自己は、世界の在り様そのもの、世界そのものとしての自己に開かれている道を生きてゆくことが自らの生き方となり、次の常行の指針となる。

Ⅵ.5 常行

 常行は、日常の生き様そのものであり、その生き様を坐行で見出した自己の在り様に沿うように実践するということである。その生き様は、大乗仏教における菩薩行に沿ったものが基本になると考えられる。というのは、自己の在り様は智行で見た世界の在り様と一体としてあるので、世界の在り様、即ち大乗的には仏の世界となる、その世界に向けて衆生を伴って修行する菩薩の修行に沿ったものになるのは当然のことである。大乗仏教の菩薩行は、一般的には周知のように、六波羅蜜の実践、即ち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の完成という六つの徳目を実践することとされている。その中で、禅定と智慧の完成は坐行に対応したものであって、常行に対応するのは布施、持戒、忍辱、精進である。かつ、その中で最初の布施は、他者に対する振る舞いに係る徳目であり、後の三つの持戒、忍辱、精進は、自身の振る舞いに係る徳目である。
 また、この菩薩行に先行して、釈迦仏教においては、自身の振る舞いに係る徳目として五戒が提示され、また八正道の中で提示されている五つの正道、即ち正思惟(正分別)、正語、正業、正命、正精進についても、菩薩行の前提となる徳目、乃至菩薩行の徳目の外延に包含される内容として含まれると考えられる。
 また、菩薩行の他者に対する振る舞いに係る徳目としては、元々はパーリ仏典長部の『三十二相経』の中で説かれている「四摂法」、より身近には道元の『正法眼蔵』の拾遺に含まれている「菩提薩埵四摂法」において、衆生を摂取するための四つの項目として、布施だけでなく、他に愛語、利行、同事が挙げられている。
 また、道元が興聖寺において衆僧を供養する(食事を司る)役職である典座の職責を詳細に説いた「典座教訓」(『永平清規』に含まれる)で、その最後の締めくくりとして、禅院の諸役が事を作務するときには、喜心、老心、大心を保持すべきであり、この三種の心を忘れてはならないと説いている。現代釈迦道においては、この後説明するように、この三つの心の在り様は、禅院の諸役に限らず菩薩行における心の在り様とするべきであると考える。
 以下、個々の徳目について具体的に見て行くことにする。まず、自己自身の振る舞い、即ち心の持ち様、態度、行動・動作に係る徳目について見て行く。六波羅蜜では、最初に持戒が示されている。
 持戒は、出家僧の場合は戒律を守るということであるが、常行の日常生活においては、釈迦仏教で提示されている五戒、即ち不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒を守ることである。具体的には、生存に必要な食物を得る目的など、健康的な生存に必要な場合を除いて不必要に生き物を殺さないこと、他人が保有しているものを盗まないこと、自然な性交渉とそれに付随する行為を逸脱した淫らな性行為を行わないこと、嘘をつかないこと、過度に酩酊するような飲酒をしないことを意味する。僧の修行において求められる、動物を食せず、蚊などの害虫も殺さず、性交渉を一切行わず、結婚はせず、一滴も飲酒しないなどということは、現代釈迦道では全く意味のないことである。また、八正道で挙げられている正行は、正しく行動することで、具体的には不殺生、不偸盗、不邪淫で、五戒を守ることを超えるものではなく、持戒に相当するものと考えられる。また、十戒で挙げられている、身を飾らない、歌舞音曲を見聞きしない、広大な寝台に寝ない、午後食事しない、金銀を私有しないなどということは、程度の問題で過度でなければ全く問題にならない。
 次の徳目の忍辱は、困難や苦難に遭遇した場合に耐え忍び、動揺したり、怒ったりしないことを意味する。耐え忍ばずに感情的に反応した場合には、結局後悔で終わる結果となるためという理由もあるが、それ以前に感情的に反応すること自体が世界と自己の在り様、その現実的な在り様を理解・体得していないということ、そこに根元があるということである。忍辱する具体的な方法としては、その事態に正面から向き合って耐え忍ぶということの他に、その事態をそのまま受け入れてしまう、あるいはそういうものであると諦観を持つことが示されている。ただ、その事態から逃げてしまうと、一層事態を悪化させることになる。また、八正道においては、正分別(正思惟)の中に出離(俗世間的な渇望の否定)、無瞋(憎しみや怒りの否定)、無害(攻撃性の否定)があげられており、無瞋、無害は明らかに忍辱の対象であり、出離に関しては基本的に出家僧に求められるものであるが、健全な日常生活での必要性を超えた渇望を否定し、そのような渇望が生じた場合は忍辱の対象である。
 次の徳目の精進は、何ごとにも誠実に不退転の意志を持って精一杯努力することを意味する。八正道においては、正精進が挙げられ、具体的には四正勤、即ち既存・未然の一切の悪を断じ、善を成ずることに努力することと解されている。が、善とか悪とかの価値判断を前提にすると、その価値判断の適否が為されなければならず、振る舞いは価値判断を前提にしないそれ以前の事柄である。只、中核となる誠心誠意努力するという点で大略同じと考えて良いであろう。
 その他、八正道で挙げられた徳目として正語があり、妄語、綺語、陰口、誹謗、粗暴語を避けることを意味している。
 また、八正道で徳目として挙げられている正命は、社会的に好ましくない仕事を生業とせず、好ましい職業を生業にすることを意味している。
 これらは、常行(日常生活)の中での自身の振る舞いにおいて、自己を律して実践する徳目である。
 次に、他者に対する振る舞いに係る、「四摂法」で示されている各徳目について見て行くことにする。まず、布施は、修行僧に布を施したことを原初としたものであるが、今は広く恵みや施しを意味しており、財施、法施、無畏施など種々の施しが考えられている。また、施しは、する者、受ける者、施しの内容が夫々清浄なこと、三輪清浄が求められている。ただ、施しという言葉の原義には、優位者が劣位者に恵みを施す・与えるという側面があるが、現代釈迦道においては、布施とは相互に関係を取り持つものが、各々得たものを分かち合うという意味と理解し、得たものを貪らず、独り占めせず、広く分かち合うことであると理解する。
 愛語は、慈悲・慈愛の心をもって、優しい言葉、気に入る・心に訴える言葉をかけることである。
 利行は、自分のことより他人のために、また親しい人か憎い人かに関わらず、見返りを求めることなく、他を利益するように行動することである。
 同事は、自他が違わず、自他一如であるということを銘じ、自己の思いを他者と同じ境遇に置いて共同して実践することを意味する。
 これらは、常行(日常生活)の中での他者に対する振る舞いにおいて、他者を自己と異なるものではなく同等であるものとして実践する徳目である。
 ところで、以上の徳目の実践に当たっては、喜心、老心、大心という三種の心を保持していることが肝要である。ここで、喜心とは喜びの感情であり、老心とは慈悲の意志であり、大心とは世界の在り様に関する知性であり、保持すべき三種の心は、それぞれ心の三つの側面である感情、意志、知性に対応している。
 自身を律して実践すべき持戒、忍辱、精進等の徳目の実践に当たっては、当然のこととして自らを律しようとする意志の存在を前提にするが、その意志を継続するには喜心をもって実践することが必要である。こう言うと、自らを律するというような、不可能とか困難とまでは言わないにしても容易でない、特に忍辱などという実際に非常に困難と思われることを実践する時に喜びの感情を持つというのは、不可能であると考えるのが通例である。しかし、その実践時に直接的には精神的な苦悩を感じるとしても、自らを律している実践が自身の望ましい在り様であることを心(知性)が了解し、その意味を嚙み締めることによって苦悩が相対化するばかりでなく、さらにその意味を理解・体得することによって、自己の望ましい在り様に対する心の反応として喜びの感情が現出するのである。要するに、自らを律して望ましい在り様ができている自己を誇らしいものと認識することで、自己がその状態にあることに喜びが感じられるということである。
 また、他者に対する振る舞いにおける布施、愛語、利行、同事などの徳目は、老心をもって実践することが要諦となる。他者に対してこれらの徳目を実践したときには、他者が感謝を表する場合が多く、それを受けて喜びの感情が現れるとしても、そのことが実践の主たる動因であるのではなく、感謝の有無にかかわらず、たとえ無視や反発を受けたとしても、老心をもって、即ち慈悲の心をもって実践すること、明確な慈悲の意志をもって実践することが求められる徳目である。意志は、心(知性)によって正しい行動と評価されるものごとの達成を目的として意欲的に実践しようとする心の働きであり、他者に対する振る舞いにおいては、老心即ち慈悲の確固たる意志をもって実践することが必要である。
 さらに、これら喜心や老心が成り立つ背後には、既に触れているように、心の知性の側面に基づく大心がある。大心とは、大山のようにどっしりと、大海のように広々とした心であるとされており、このような大心は次に示すようにして成り立ち、生起する。各個に「自己」と捉えているものは、個別的・実体的な存在としてあって、その自己が外部世界の中で自立的に存在しながら世界に対して関係をもって活動しているという在り様をしているということではなく、「自己」と捉えているものの在り様は、あらゆる「ものごと」が縁起という在り様をしている世界において、その一分枝としてその世界と一体的な存在としてあるという在り様をしているのである。「自己」がこのような在り様をしていることを心の知性の側面が智慧として体得することによって自ずから大心が得られる。すなわち、「自己」が世界の在り様と内的に一体的な在り様をしていることを心の知性が体得すると、「自己」が「世界」そのものであるということに基づいて心の働きとして上記のような大心が生起するのである。かくして、この大心に基づく自己の行動・振る舞いにおいては、世界の在り様に沿った望ましい在り様であることから自ずから喜心を生起し、また老心を起こして自己と他者の相互的な在り様を実践することとなる。
 以上の日常生活における生き様に係る徳目の実践は、世界の在り様の抽象相に対応し、あらゆる実践に普遍的なものである。一方、現実の生活における活動の大部分は、世界の在り様の具象相である社会システムの中でその一翼を担う形で働き、余暇を過ごし、日常生活を営むことに費やしており、そこでの社会的実践において如何に行動すべきかが問われ、それに答えることがより重大な意味を持っている。その内容は、正に世界の具象相における自己の在り様、即ち坐行において見出した自己の在り様の具象相に沿って実践することである。ただ、坐行で見たように具象相は個別的であり、各自が個々に日々の実践の中で追及すべき事柄である。
 現代釈迦道は、以上の智行、坐行、常行の三行の実践を循環して繰り返し、そのレベルを順次高めて行くことで、世界の在り様と自己の在り様の一体化を実現しようとするものである。そうすれば一般的に耐えがたいと思われるような不遇や困難に例え遭遇したとしても、超越的又は/及び神秘的な存在である神や仏に帰依又は/及び依存することなく、自らの生き様に対して確固たる意志を持って凛として活き活きと生きて行くことができる。従って、基本的に宗教に対する依存は不要である。このような生き方をすることが現代釈迦道そのものである。
 ただし、実際問題として、このような状態まで自己を高めるにはそれなりの修行とその時間が必要であり、現代釈迦道を知らず、あるいは知っていてもこのような状態になる以前に、耐えがたい困難や不遇に陥れば、神や仏を信じることを求める宗教を心から信仰し、神や仏を頼り、それに帰依して祈ることで苦難を逃れようとする例が出てきても不思議ではなく、それはごく自然なこととも言える。また、敬虔な信者の信仰生活は、祈りと布教の活動を別にすれば、現代釈迦道の常行と実質的に同じく、自らを律し他者に慈悲をもって生きることを求められ、その健全な生活の実践によって苦難を乗り越えて精神的に安定した生活を生き生きと営むことができる。
 しかし、この超越的乃至神秘的な神の存在を絶対的に疑うことができないものとし、それを前提として神に対する無条件の信仰・依存を受け入れるという心理構造は、カルトと共通していて基本的な違いは存在しない。所詮は人間が未熟な歴史段階の精神文化の形態であると見なすことができる。従って、健全な範囲であれば容認できるとしても、宗教が前提としている心理構造は基本的にカルトに陥る危険性を内包していることを自覚すべきであり、本質的には消滅して行くべきものである。