Ⅵ 現代釈迦道

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Ⅵ. 現代釈迦道

Ⅵ.1  現代釈迦道の立脚点

 まず、現代釈迦道の立脚点若しくは基盤はどこにあるのか、現代釈迦道の目的及び現代釈迦道に対する発心について説明する。
 人は、「苦」を受け、生きることに限界を感じたときに、一方で死を考えながらも、それでも生命体が本来的に持っているホメオスタシスによってやはり生きたいと思うのが自然である。そこで、死にたいとおもいながらも生きて行くために、その根拠、「生きる意味」を求めることになる。「生きる意味」に納得すれば、それを心に掲げて「苦」に正面から向き合って立ち向かうことができ、「苦」と感じていたことを冷静に対象化して乗り越えて生きて行くことができると考えるからである。
 死を考えるほどで無くても、自己の思い通りにならないことがあると、自己の存在意義が低く評価されていると考え、そのことが「苦」となり、そこで「生きる意味」を求めることもある。
 更に、日常生活に特に不満があるわけではないが、もっと充実感をもって積極的な生き方をしたいため、「生きる意味」を明確に知ることを求め、それに則って生きることで充実した人生を生きたいということもある。
 人間は観念で自己を制御する能力があり、観念によって生き様を変えることができるので、「生きる意味」を知ることによって、「苦」や空虚感を感じてもそれを乗り越えて充実した生き方ができると考えるものである。
 このような「生きる意味」は、どのようにして得られるのか。「神(ゴッド)や仏によって生かされているのです。」というように、何か天上の超越的な存在から崇高な存在根拠が与えられているとし、その教えに沿って生きることが「生きる意味」であるとするのが、シンプルであることで一般的に受け入れ易く、現に多く受け入れられている考え方である。というのは、超越的な他者である神や仏を拠り所として自己のすべてを明け渡すことによって、苦しみから解放され、重荷を降ろし「生きる意味」を感じながら生きていけると考えるからである。また、このような考え方はシンプルであることで、分かり易く受け入れ易いだけでなく、一旦受け入れてしまうと安住できて簡単には抜け出すことができず、カルト的な宗教であっても一旦入信すると抜け出せなくなる理由の一つである。
 また、積極的に「生きる意味」を求めるという方向ではなく、心の動揺や感情の起伏が大きかったり、何か良く分からない不安感にさいなまれたりすることが多いと、そのような不安定な状態にあることに耐えられず、そこから逃れたいと思うことがある。これは実体的な存在ではない人間の本源的な弱さに基づくものであるが、この場合も心の拠り所として外部の超越的な神や仏を想定してそれを頼り、それに依存して祈るという方法が取られることが多い。
  さらには、神秘的な力・霊力の存在を想定して、それを身に付けることで「苦」や不安に対抗することができると考え、修練や苦行に入り込む場合がある。それが可能である根拠として、人間は本来霊的な力を持っている、あるいは霊的な存在であると想定し、修練や苦行を行うことで霊力が顕現すると考えることによる。
 しかし、自己の存在根拠となる「生きる意味」が、何か訳の分からない超越的な他者によって与えられるなどというようなことは、冷静にかつ真面目に考えれば、それ程簡単に受け入れられることではない。従って、まず「信じなさい」ということになる。しかし、超越的なものを無条件に「信じる」というようなことは、いくら精神的に弱っている状態であっても正常な神経のもとでは受け入れることはできず、なかなか踏ん切りがつかないのが通例である。そこで、「信じる」方向に最後の一押しするのが「奇跡」を示すことであり、大抵の宗教はこの「奇跡」が起こされたことを示して信じさせることになる。しかし、「奇跡」などというものは、何らかの行為と偶然が幸運にも重なって生じることがあることは完全には否定し切れないが、大抵は意図的な演出によるものであったり、正常な精神状態でない状況下で思い込むように誘導されたものと想定されるものである。しかも、実際に「奇跡」を知るのは伝聞でしかないというのが通例であり、その場合僅かな変化を正に信者の間で次々と尾ひれを付けて語り継ぐことで、針小棒大の「奇跡譚」が形成されたと考えられる。従って、「奇跡」というのは現実的にかつ客観的に目前で起こらない限り信じられるものではない。もし、そのような「奇跡」があったと主張されても、「不知」(知ったことではない) とするしかない。さらに、信じなければ天罰が下るとか、地獄に落ちるとか、不幸事が起きるなどというような脅迫が行われた場合は、真正のカルト宗教として排除するべきものである。
 そもそも、生きている現実の外部から「生きる意味」が得られたり、与えられたりすることはないというのが真実であり、「生きる意味」などというものを追い求めようとすること自体が根本的な間違いである。
 そういうことではなく、「生きる意味」なるものではなく、「自己」はどのように存在している(「生きている」)のか、「自己」の本来の在り様、すなわち世界の中での自己の在り様を見出すことは可能であり、その在り様に則って生きて行こうとすることが「生きる意味」を得るということの現実的な解答である。
 また、不安から逃れる心の拠り所を求めて、あるいは現世利益を求めて、超越的な存在である神に祈るというようなこと、霊的・神秘的な霊力の存在を信じて修練・修行するというようなことは、本源的な人間の弱さに基づいたある意味自然的なものである。そのため、全否定するようなことはせず、本質的に問題を解決するものでないことを指摘し、正しい道を提示しておくことで、自然に離れて行くようになるものと判断している。
 かくして、現代釈迦道の目的は、「自己」と「世界」の在り様を見出してそのように生きることであり、それによって身心ともに健康に生き生きと生きて行くことであり、それを目指して日常生活において修行することであり、そうすることを自ら誓うことが現代釈迦道に対する発心である。

Ⅵ.2 現代釈迦道の概要

Ⅵ.2.1 釈迦道の再確認

 現代釈迦道は、釈迦道とある様に、釈迦が開いた道という意味の釈迦道を基軸とするものである。とは言っても、釈迦道といった場合、その内容は漠然としており、特に現状の仏教においては、大乗仏教の各宗派における仏道の総称乃至はその仏道の別称として捉えられる。そこで、現代釈迦道において踏襲してその基軸にしようとする本来の釈迦道の内容を、大乗仏教の解釈を離れて再確認することから始め、それを基底にして現代の道を追究して行きたい。
 釈迦道の基本は、既に「Ⅱ.釈迦仏教」で見たように、「四諦」、それと一体の「八正道」、及びそれを裏付ける世界観である世界の在り様としての「三法印」と呼ばれるものと、世界の成り立ちとしての五蘊に尽きるが、現状は大乗的な立場からの捉え方、解釈によって本来の意味から逸脱してしまっている。
 既に述べた点と重複するが、改めて整理して述べる。まず、「三法印」について、現状では「諸行無常」、「一切皆苦」、「諸法無我」という三つの事柄が仏教たる指標であるとし、「三法印」と呼ばれている。即ち、漢訳によって標題化された上で、そこから解釈されることで、「あらゆる事象は無常」、「一切の事象は苦」、「あらゆるものごと(法)は無我」であるということを意味していると解し、各々が個別の三つの事柄として捉えられている。そのため、肝心の要件が抜け落ち、その趣旨が変質している。
 釈迦が述べた言説では、「一切の形成されたもの」は無常であり、苦であり、「諸法 (あらゆるものごと)は我(アートマン)ならざるもの」であるということを、明らかな智慧をもって観ずることによって苦から遠ざかり、離れることができ、清浄になるとしている。この中で、「形成されたもの」という意味は「縁起(縁によって生起)したもの」であるということである。また、諸法が無我であるということは、一切のものごとが「形成されたもの」であるということを含意し、形成されたものであるが故に、我(アートマン)と言われる不変的な実体としてあるのではないということである。そうして、このように観ずる「明らかな智慧」が釈迦道の真髄としての世界観であり、その「明らかな智慧」の内容は、正に、あらゆるものごとは縁起したものであること、そのため無常であり、苦であり、またアートマンというような実体的な存在ではないということである。
 次に、五蘊について。蘊(スカンダ)とは、因と縁が合わさって同類のものが集積して成り立ち、変化し続ける「有為」の現象的存在(縁起としての存在)であり、五つの蘊、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊が、同じく因縁によって仮に集まって物質界・精神界の両面にわたる一切の世界を成り立たせており、五蘊以外に実体的なものは見出せないという世界観である。
 色蘊(ルーパ)は、身体を含めて世界のあらゆる物質的存在を捉えたもので、地・水・火・風の四大(空(空間)を加えて五大)元素から成るものと解されている。釈迦の時代は、人体の成立過程とその構造・メカニズムを含めて物質的世界に対する知見が乏しく、こういう理解も歴史的限界として致し方ないことである。
 受蘊(ヴェーダナー)は、一般に感受作用とされているが、色蘊である感覚器官による感知作用とその出力信号の受取作用を奏し、経験・訓練によってその能力が向上する作用体としてあり、単に感受作用というよりも感受能と言った方が適切であると思われる。この受蘊は、色蘊ではなく、また以下に見る想蘊・行蘊・識蘊から成る「心(チッタ)」でもなく(「心」に分類する見解が多い)、色蘊と「心」を繋ぐ中継要素で、「心」に対象を提供する「心」に対して独立の要素と解される。このような見方は、後に見る「八正道」において、「正念」の四念処として、身、受、心、法を挙げているということによって補強される。
 想蘊(サムジャーナ)は、一般に事物の形象を心に思い浮かべる表象作用とされているが、受蘊からの漠然として纏まりのない信号・データや、雑多な情報・認識から何らかの纏まりのある情報・認識を構想したり、何らかの意味を想像したりする想像能であると考えられる。受蘊から提供された信号・データに関してはその表象作用を行う。
 行蘊(サンスカーラ)は、一般に心をある方向に働かせる意志作用とされているが、サンスカーラは能動的に何かを為そうとする潜在的な能力を意味しており、想蘊と識蘊を連携するとともに対応する対象の関係に応じて意志や感情的な反応を生成し、何かを為そうとする意欲能であると考えられる。対象認識の場合は想蘊で表象された対象を識蘊による認識対象にする。
 識蘊(ヴィジュニャーナ)は、一般に対象を了別識知する意識作用とされ、心の主体と考え、他の心の要素を「心所」とするのに対して「心王」と呼ばれているが、対象を認識し、その認識を識別し知り分けて知識として記憶し、記憶している知識を処理して新たな知識を創造して記憶して認識体系(蔵)を構築し、それに基づく価値判断基準を持った自己意識を構成・保持する意識能であると考えられる。
 これら想蘊、行蘊、識蘊という性質の異なる三種の蘊にて精神作用を行う心(チッタ)が成り立っている。
 釈迦は、これら五蘊に関して、煩悩に伴われた五蘊を五取蘊と言い、初転法輪で「五取蘊は苦なり」と説き、色取蘊について、「色を知り、色の生起を知り、色の滅尽を知り、色の滅尽にいたる道を証知して、色を厭離し、貪りを離れ、滅尽に向かう者たちは解脱したものである」と説き、受、想、行、識についても同様に説いている。このように世界の成り立ちに係る世界観である五蘊においても、「苦」と同様、「縁起」の世界観の埒内にあるものとして了解されていることは明らかである。
 現代釈迦道においては、五蘊に関して世界の成り立ちを「縁起」として把握する点では継承するが、その内容に関しては、「色」は時代的限界によって妥当性がなく無内容で、継承できるものでなく、「受、想、行、識」に関しては、認識のメカニズムを含む「心」の構成の理解として意義ある見解と考えられる。ただし、世界の成り立ちに係る世界観としては妥当性があるとは考えられない。物質界の理解が貧弱な時代において物質界と精神界の両界を統一的に捉えようとすることで、心に偏した理解にならざるを得なかったという時代的限界であり、その後に至っても、唯識的な世界観が出てくることになる。現代釈迦道としては、「心」が想蘊、行蘊、識蘊という性質の異なる三種の要素から成るという理解を継承した場合におけるそれぞれの内容について後に改めて詳しく検討する必要がある。
 かくして、釈迦道における以上に見た「縁起」の世界観は現代釈迦道においても継承する。ただ、釈迦は「縁って生起する」(縁起する)という言葉は一部を除いてほとんど使っていず、「縁起」の意味する内容を概念的かつ詳細に説明していない。現代釈迦道では世界観として明確に提示することによって世界の在り様をより明確にかつより具体的に捉えることを目指すことになる。釈迦の時代と異なって、現代の世界に対する知見は「縁起」の世界観の現実的妥当性を示している。
 次に「四諦」は、「苦諦」(「一切皆苦」に同じ)、「集諦」(苦には原因がある)、「滅諦」(苦は滅することが可能である)、「道諦」(苦を滅する道がある)という「四つの真実」である。その内容は、苦を避けることはできないが、苦を生じる原因は煩悩即ち縁起した無常なものに対する渇望・執着にあるので、渇望・執着を消滅することによって苦を無くすことは可能であり、そのための道、苦を無くす具体的な道があるということを明確に示したものである。
 現代釈迦道は、この「四諦」についても原則的に継承する。ただ、釈迦道では「苦」だけを問題にし、「苦」を滅することで清浄になることを目指すという構図であり、そのために俗世間から離れ、別世界として構成されたサンガ乃至叢林での修行を続けるということになるが、そのようなことは、経過的・一時的な修行とするのでない限り継承することはできない。現代釈迦道は、「苦」を滅することを目指すのではなく、世界の中での自己の在り様を体得してその存在意義を嚙みしめ生き甲斐を感じつつ活々と生きることが主眼となり、より広く積極的な意義のあるものの達成を目指すことになる。
 次に「八正道」は、「正見」、「正思惟」、「正語」、「正業」、「正命」、「正精進」、「正念」、「正定」である。
 「正見」は、「四諦」についての正しい(サマー)知(ディッティ)をもつことである。このように「四諦」の最後に「道諦=八正道」を挙げ、その「八正道」の最初に、まず「四諦」の正しい知が挙げられ、「四諦」と「八正道」とが一体のものであることが示されている。かくして、「正見」は現状の大乗仏教においてよく言われるように、最終的に得るべき、仏道の完成としての「智慧」ということを意味するものではない。
 「正思惟」は、正しい(サマー)考え方・心の持ち様(サンカッパ)ということであり、「四諦」の知に基づいて「苦」を滅する道を日常行動において実践するに当たってその「入り」としてまずその考え方・心構えを示したものである。具体的には、財産・名誉などを求める俗世的五欲から離れる出離(ネッカンマ)と、自己愛から来る憎しみや怒りを無くす無瞋(ヴィアパーダ)と、怒りから来る攻撃心を無くした非暴力を意味する無害(アヒンサー)を基本的な心の持ち様・考え方とするということであり、智慧を修するという意味はない。
 「正語」は、正しい(サマー)語(ヴァーチャー)、本当のことを正しい言葉使いで語るということであり、具体的には妄語(虚言、真実でない嘘の話)、綺語(無駄話)、陰口(仲違いさせる話)、誹謗、粗暴語を避け、正しい言葉使いをすることを意味する。
 「正業」は、正しい(サマー)行動(カマンタ)で、殺生、盗み、非梵行を避け、正しく行動することを意味する。
 「正命」は、正しい(サマー)生業(アージャーヴァ)で、道徳に反する生業による生活を避け、正しい生活をすることを意味する。
 「正精進」は、正しい(サマー)精進(ヴァーヤーマ)で、「四正勤」と言われる事柄の実践に一心に集中して努力することを意味する。「四正勤」とは既存する善を拡大・増長し、未然の善を生ずるようにし、既存する不善を解消し、未然の不善を生じないようにすることである。この「正精進」は、「苦」を滅する道の日常行動における実践の「括り」として、日常行動の全体にわたる総括的な実践の心得を示したものである。
 これら「正思惟」、「正語」、「正業」、「正命」、「正精進」の五つは、次の「正念」、「正定」を実践するために必要な前提条件を整える日常行動の在り様を示したものと解される。
 「正念」は、正しい(サマー)気付き(サティ)で、対象に集中して瞑想し、観ずることで気付きを得ることを意味する。その対象は、身・受・心・法の四つで「四念処」と呼ばれている。釈迦の言説では、身、受、心、法の各々を、「観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、貪欲と憂いを除いて住む。」「これを正念と呼ぶ。」と述べているが、意味するところが明瞭でない。そのためか、現状の大方の理解は、凡夫の誤った考え方「身、受、心、法を、それぞれ浄、楽、常、我と見る、所謂「四顛倒」に対して、「身は不浄である」、「受は苦である」、「心は無常である」、「法は無我である」とそれぞれ観ずることであるとしている。「身」については不浄であるなどという価値判断による思い込みをした上で、「三法印」における「一切皆苦」を「受」に、「諸行無常」を「心」に、「諸法無我」を「法」にそれぞれ対応させたものと考えられるが、元々このように対応させることに無理があるとともに、結論ありきで観ずるなどということは話にならない。
 現代釈迦道の理解としては、「身」は生命体として在る身体(「色」の一部である)であって、その身体を対象として集中して瞑想・観想し、生命体としての身体の在り様に気づくことである。「受」は「色」と「心」を繋ぐものであり、感覚器官による感知を「心」で受取する感受能であって、生命体としての身体と世界との原初的な関係としての感受の在り様を対象として集中して瞑想・観想し、その感受の在り様に気づくことである。「心(チッタ)」は感受に基づいて識別・思考し、行動を統御する「想、行、識」を担って世界との間で高度に関係を取り持つものであって、そのような「心」の在り様を対象として集中して瞑想・観想し、その在り様に気づくことである。「法(ダルマ)」は世界におけるあらゆるものごとの在り様で、その法について集中して瞑想・観想することで、その在り様に気づくことである。以上の文脈の中での「気づき(サティ)」とは、小さな「悟り」のようなものであると考えられる。
 「正定」は、正しい(サマー)三昧(サマーディ)で、その内容について釈迦の言説はない。恐らくは、正念による気づきに集中することで、「苦」を滅した状態・その境涯が動揺することなく安定した状態になるということであろう。
 現代釈迦道の理解は「正念」によって明らかになった「自己」という存在が「法(世界の在り様)」と一体のものであるという気づきの状態に集中して瞑想・観想することで、「気づき」が動揺のない恒常的な体得状態、所謂「悟り」の状態になること、その境涯を意味している。
 これら「正念」と「正定」が、坐禅によって実践される禅定である。
 以上が、釈迦によって示された「八正道」の中で、現代釈迦道において継承する内容である。
 ところで、後の大乗仏教(『大乗涅槃経』「獅子吼菩薩品」)では、戒(身、口、意の三悪を止め善を修する)、定(禅定を修め、心を安静にする方法を修する)、 慧(智慧(般若)を修めてすべての事柄の真実の姿を見極め、真理を悟ることによって仏道が完成される)という「三学」が、仏道修行者が必ず修めるべき基本的な修行項目とされている。この「三学」に上記八正道を分類する説がある。それは、「正見」・「正思惟」を「慧」に、「正語」・「正業」・「正命」を「戒」に、「正精進」・「正念」・「正定」を「定」に当てはめている。しかし、三学と八正道の両者は元々異なる世界観に基づいており、このような分類・当てはめは、上記の八正道の説明からも明らかなように、釈迦道の理解としては根本的な誤りである。
 現代釈迦道の立場から少し詳しく見ると、八正道に「慧」に相当するものはなく、あるとすれば「正定」に含まれているものである。「正見(四諦)」は「明らかな知」であっても仏道が完成して得られる仏の智慧というような意味での「慧」ではない。なお、現代釈迦道においては、「正見」に対応する知としては、「四諦」で示された内容に限定するものではなく、「正見」に基づく日常行動(戒)及び禅定(定)の実践の中でさらに具体的に得られたあるいは展開された「知」が「正見」として位置づけられる。
 次に、「定」に入る条件を満たすために必要な日常行動の在り様として位置づけられている「戒」に相当するのは、「正思惟」、「正語」、「正業」、「正命」、「正精進」の五つであり、基本的には現代釈迦道においても継承されるものである。ただ、現代釈迦道においては「戒」という面だけでなく、むしろ「正定」によって得られた「知」乃至「智慧」に基づきそれに則って日常行動を行う、所謂菩薩道の実践が主体となるものと想定している。
 次に、「定」に相当するのは、「正念」と「正定」であり、これについては、ほぼそのまま継承されるが、現代釈迦道は、釈迦道におけるように苦を滅した三昧の境涯になること(なれるかどうかは別にして)だけを目指しているのではなく、「正定」によって世界における世界と一体の自己の在り様を見出すことが主題であり、それによって自ずから苦も滅することができるものと想定している。
 最後に余論であるが、「四諦」「八正道」は、釈迦が悟りを開いた後最初に行った初転法輪において説法されたものとされており、さらに入滅前にも「四諦」が要諦であると説いていて、釈迦としての45年の生涯にわたって変わることなく保持され、説かれていた教えである。『涅槃経』として、最も古く上座部によって編纂された『大般涅槃経(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)』においては、「四諦」と「八正道」が説かれ、「自灯明・法灯明」が説かれている。なお、「三十七道品」と呼ばれる教えも説かれたとされているが、その内容は基本的には四諦・八正道と、その中から抽出した要素であり、それに上座部の教理を付け加えられた形の教えである。その後、大乗の『涅槃経』が成立するまでに編纂された『仏遺教経』では、中間部分に「八大人覚」として知られる「成就出世間大人功徳分八」などの教えも説かれているが、最後の方で弟子達に対して「四諦について疑問や分からない所があれば問え、疑問を残して答えを求めないことのないように」と述べ、疑問が示されなかったことで、教えを全て説き尽くした、修行者達は受持しているとして、思い残すことはないと述べている。大乗の『大般涅槃経』では、釈迦の涅槃は方便であるとし、法身としての釈迦如来(仏)の教理が説かれ、四諦・八正道は変質し、実質的に消滅している。

Ⅵ.2.2 現代釈迦道の大要

 現代釈迦道は、衆生が仏に帰依することでその慈悲によって救われるのではなく、衆生が自ら修行することで自らを救うものである。衆生が自らを救うのであれば、その修行は生涯専業的に行うような修行であってはならず、出家は不要でなければならない。現代釈迦道の修行者は現世を現に生きて生活している生活者自身であり、普通の(在家の)衆生が日常生活をしながら修行を行うことになる。現代釈迦道は、衆生が自ら自己をかけてかつ衆生同士が互いに共有し合って修行を進めて行くということが要諦となる。
 このような修行の道は、現代の歴史状況に応じて実現することが可能な道であり、その意味で現代釈迦道である。すなわち、情報社会化が進展する現在から未来に向けて、労働時間が短縮化するとともに、労働と自らの意欲による余暇活動との区別が無くなって行くと考えられるので、その活動の中に自らを高める現代釈迦道の修行を組み込むことが通例となる可能性が高いと考えられるからである。
 現代釈迦道の修行においては、三種類の修行ないし行があり、それらの全体が自己の在り様・生き様そのものを構成している。第一は、世界と自己の在り様を、智慧に基づいて主として世界の側から洞察する智行であり、第二は、坐禅という身体技法を用いて集中して観想することで、主として自己の側から智行で洞察した世界における自己の在り様を検証し見出す坐行であり、第三は、見出した自己の在り様を自らの日常生活における生き方として実践する常行である。
 智行においては、仏教を中心として各種宗教の教理や教説を参究し、その際にさらに哲学や諸科学の成果や歴史・社会の理解にかかる諸理論などによる幅広い知見を参照することによって、世界と自己の在り様を洞察することになる。現状では、最も抽象的な相において、「ものごと」は「縁起」したものであってその「実体」や「我」は「無」であり、若しくは「空」であるということが明らかにされているが、その「無」や「空」の在り様について観念的に議論されることはあっても実質的な内容は不明なままであり、その結果具体的な相は課題とすること自体が対象外となっている。
 この智行は「八正道」における「正見(正しい見解)」に相当する。一方、「六波羅蜜」では相当するものはなく、直接的に仏の慈悲による「智慧の完成(=成仏)」となる。
 坐行においては、坐禅という身体技法を行って「自己」の在り様を観想するとともに、その際に智行で獲得された「縁起」したものである世界の在り様を自己の在り様として検証することによって、世界における自己の在り様を見出すことになる。現状で行われる坐禅においては、「仏」の存在を前提にしてその仏の理解に基づいてそれに対応した行法・作用・成果などが説かれているため、現代釈迦道における脱仏した行のあり方を考える必要がある。
 この坐行は「八正道」における「正定(正しい禅定による精神統一、止)」と「正念(正しい想念による観想、観)」に相当し、「六波羅蜜」における「禅定」に相当する。
 常行においては、世界における自己の在り様を生きるということであり、縁起する世界の在り様の相互関係に則って生きるということから、自ずから大略大乗仏教において説かれている菩薩行を実践することになる。ただ、大乗仏教の菩薩行は、成仏を目指して修行する菩薩が仏の慈悲を前提にして自らの成仏よりも衆生の済度を先にして行うというものである点で、相違点を明確にする必要がある。
 この常行は「八正道」における「正思(欲・怒などを持たない正しい思い・判断)」「正語(正しい言葉使い)」「正業(正しい倫理的行動)」「正命(正しい生業による生活)」「正精進(善を為し不善を為さない努力)」に相当し、「六波羅蜜」における「布施」「持戒」「忍辱」「精進」に相当する。
 また、これら智行、坐行、常行はそれぞれ個別に独立的であるのではなく、相互に関連し影響し合う関係にある。すなわち、智行において世界観を洞察する智慧は、単なる知識ではなく、常行において日常生活を行う際の世界の実体感と複合して成立するものであり、智行と常行は相互に連関しつつ進展する。坐行において自己を通して世界と自己の在り様を観想する自己は、正に常行によって成長するものであり、坐行と常行が相互に連関して展開し、世界と自己の在り様がより高い境地で体得される。
 こうして、現代釈迦道においては、世界と自己の「縁起」による相互関係的な在り様をより深くより高い境地で見出し体得して行くことで、日常生活において何があっても平静に穏やかに泰然として受け止めるとともに、他者への暖かい眼差しを持って、心穏やかに安寧にかつ楽しく積極的に生きるということを目指すことになる。
  次に、智行、坐行、常行の各々についてそれらの具体的な内容について詳しく見て行くことにする。

Ⅵ.3 智行―世界観の参究―

Ⅵ.3.1 従来の「縁起」理解

 世界、即ちすべての「ものごと」の在り様の参究に当たっては、釈迦仏教における「三法印」で示された「縁起」が端緒となる。すなわち、「明らかな智慧」によって、世界の「ものごと」は「縁起したもの」であり、それ故に無常であり、苦であると観ずることで、「苦」から離れることができると説かれている。ここで、「世界」の「ものごと」は「縁起」したものであるということを「智慧」によって観ずることが示された、すなわち「智慧」は「世界の在り様」を「縁起」として捉えるものであったと言える。
 ただ、その「縁起」については、言葉として断片的に言われてもその内実の説明はなく、「形成されたもの」とか「条件付けされて生起したもの」と解される以上には出なかった。そうしたこともあってか、観念的な形式論理で「無明」から順次「行」→「識」・・・「生」→「老死」という「苦」を生じるという関係を説明する「十二支縁起」などとして、縁起の概念が用いられるなど、世界の在り様とはほとんど関係のない観念的な使われ方しか成されなかった。また、超越的な仏の登場への転轍器となった「空」観においては、当然のことながら世界の在り様に関して「縁起」することはあり得ず、龍樹によって「ものごと」は分別的な言語理解によって存在するだけの虚妄であるとされ、その際に「縁起」は言語が相対的な関係性によって成立することを意味するものであるというように観念的な次元のものに貶められた。
 一方、仏に対する捉え方が展開して、『華厳経』で宇宙的・絶対的な盧舎那仏(大日如来) に行き着いた。そこで、現実世界はこの盧舎那仏の内実であるとされるに至って現実世界が仏と同化することになった。さらに、この『華厳経』が現実主義的な中国に入って、現実世界の在り様を探求する華厳宗が登場した。そして、華厳宗において法蔵によって「法界縁起」の世界観が提示されたことで、回り道をした後、世界の在り様が改めて「縁起」として把握されることになった。「法界縁起」の意味するところは、すべての「ものごと」が「相即相入」して相互に関係し合うという関係が無限に重なり合って融通無碍に展開しているという「重々無尽の縁起」という在り様をしていて、「一多融即」「一即一切」となっているということである。さらに最終的に、法蔵では欠かせなかった普遍性を担う要素としての「理=空」が澄観によって無くされ、すべての「ものごと=事」が互いに縁起し合って存在し、その連鎖でとけあっていて滞りがなく、互いに妨げ合わずに共存しており、世界は、「ものごと=事」そのままで、相互に交流し融合する真実の世界であるとされる。
 華厳宗が到達した地平はここまでであり、現代釈迦道としてさらに先に進むためには、やはり鍵概念である「縁起」を「相即相入」というような抽象的な観念による説明ではなく、事的な内実を明確にすることが必要である。

Ⅵ.3.2 世界の在り様の抽象相―「縁起」の内実

 世界の在り様は、重々無尽に「縁起」するものとして、即ち多重多層多元に「関係」が継起するものとして存在していると言える。「縁起」とは関係の継起である。その「関係」とは、ある実体的な「ものごと」の存在を前提条件にした上で、それらの「ものごと」の間で取り結ばれるというものではない。そうではなくて、「関係」が形成される状態が生じることが前提としてあり、そこから「関係」の成立を前提条件としてその「関係項」として「関係」の「要素」が成立するということである。そして、複数の「関係」の「要素」が意味のある纏まりを構成したとき、その纏まりが「ものごと」として捉えられるということである。世界は、重々無尽の「関係」から成る目に見えない網(ネット : net ) として構成されており、複数の「関係」の「要素」の纏まりである「ものごと」は、この網における「関係」の結節点、網の結び目(ノード : node )として理解するのが最も適切である。
 従って、世界のすべての「ものごと」は、「実体」というようなものがないという意味で「無」であり、また実体的な存在ではない「関係」によってその項として成立しているだけであるので、その在り様は「空」である。
 一方、ここで重要なことは、諸関係の要素の意味ある纏まりとして「ものごと」が成立すると、多様な「ものごと」の間での新たな「関係」の形成、及び新たな「関係」や「ものごと」の生成が加速されるということ、そうして更なる飛躍が生じて多重多層多元的な関係の要素が高度に有機的な纏まりとなった「ものごと」が生成されるということであり、動物や人間のように相対的な自立性をもって能動的に他の「ものごと」との間で新たな「関係」を形成することが可能となるということである。とは言え、その「ものごと」は、一見実体的な挙動に見えても所詮、実体的には「無」であり、その在り様は「空」であり、諸関係が逐次解消されて遂にすべての諸関係が解消すると、「ものごと」は消失し、何も残さない。
 このような「ものごと」の在り様は、「ものごと」には「世界」が内在し、「世界」は「ものごと」としてあるというように解することができる。この抽象相の「ものごと」の在り様が、「仏」を立てた抽象的観念論においては「世界」を「仏」とすることによって、仏は世界の隅々まで遍在し、すべての「ものごと」は仏性を備えているという、如来蔵思想として提示されるのである。

Ⅵ.3.3 世界の在り様の具象相

 以上のような世界の在り様の抽象相の解明は智行の入口に過ぎず、現実的な自己の在り様を照らし出すには、抽象相から具象相に移行する必要がある。即ち、智行における洞察行程は、世界の在り様の抽象相の解明から具象相の解明を目指して上向して行くことになる。抽象相から具象相に遡るということは、普遍的な在り様から現代の世界における個別的・具体的な在り様を解明して行くということであり、それは生物学的、地理的、民俗的、経済社会的、文化的などの諸要素が複合した状態で歴史的に展開・形成されて来た世界の在り様を解明するということであり、それには現実世界に関する諸科学の知見が必要になる。さらに、最終段階では個々人の個別的な在り様を見出すことになるが、それは修行者が三行を行う中で修行者同士が連携してそれぞれの智慧を出し合うことで可能となる。
 (1) 世界の成立―宇宙の展開
 具象相の解明における端緒は、現実的な世界が普遍的に成立し存在しているということにある。そのことを歴史的に解明して行くことになる。現実的な世界の始原でかつ普遍的な在り様をするものは宇宙であり、ここから出発するのが至当である。しかし、宇宙とは何物であるかは科学的に突き詰めると殆ど分かっていないというのが現実である。ここでは、その宇宙の在り様について、一般的に流布している科学的知見を参考にして仮説というより私の直観的な構想を敢えて提示して見る。その真偽のほどは科学者の見解に従うが、最終的には実証科学的な知見によって検証されることである。
 宇宙は基本的に安定して静止した不動状態にあるのではなく、常に「揺らぎ」を有しており、宇宙におけるこの「揺らぎ」によって生じた部分の在り様が「関係」として生起、即ち縁起する。この「関係」の生起によって「関係」を構成する「関係項」として「要素」が成立する。そして、縁起した「関係」の性質に応じて「関係」の「要素」となった部分が挙動することになる。
 宇宙は、原初的にはブラックホールの終極形態である反物質から成る反宇宙であり、それは反物質が極超高密度に均一に凝集した宇宙である。この反宇宙に「揺らぎ」が生ずることで、全体に無数の極微小な「超弦(ひも)」と名付けられたひも状の空隙を生じる。この空隙は反物質の宇宙に生じた物質の始原で、「超弦」はそのひもの全体が振動するとともに両端が活性を持ち、その振動モード及び両端の活性の内容によって固有の特性を持っている。「超弦」は、各々の特性に応じて相互の関係が生起して反応し、多様な素粒子を構成する。こうして生起した素粒子は、また各々の特性に応じた相互の関係が生起することで結合反応し、物質的な存在の最小単位となる多様な原子が形成され、ここに至って物質としての存在態様が確立される。因みに、原子は0.1nm(ナノメータ)、即ち1億分の1 cmという超極小の大きさであり、しかもそれは稠密な中実の粒子として存在するのではなく、原子の大きさの1万分の1の大きさの核が中心部にあり、外周部をさらに小さな電子が飛び回っている構造で、中味は殆ど空間でほぼスカスカの構造である。
 このような「超弦」、素粒子、原子が生成されて行く宇宙の形成過程において、反宇宙内部で作用していた重力が「超弦」の生成に伴ってその部分で低減することで、「超弦」の間で空間的な広がりを有する「場」を生じ、反宇宙から宇宙が爆発的に飛び出して、膨張する宇宙空間が形成される。さらに、原子は各々の特性に応じた相互の関係が生起して結合反応することで分子が形成され、原子や分子の結合・凝集によって無数の星や宇宙塵の形成が進行して現在観測されるような宇宙の姿を呈する。
 こうして生成した宇宙の多数の銀河系の中の一つの銀河系の片隅に位置する太陽系の第三惑星として、水と大気を有する地球が形成された。この地球上にその環境の下で幾多の関係が縁起する中で、メカニズムは不明であるが生命が誕生した。即ち、物質世界の上に周囲から必要な養分を摂取して代謝する機能を持った細胞、あるいは宿主の代謝を利用するウイルスとして、自らを維持し増殖して死滅して行く在り様の原始的な生命体が誕生した。次に、その上に多数の細胞が機能的・体系的に集合して構成され、細胞レベルとは異なる成体として所定の寿命と雌雄の機能を持ち、雌雄の交配により増殖する植物・昆虫・魚類・陸上動物などの動植物が誕生した。このように寿命を持ちかつ雌雄の交合により次世代を生み出すメカニズムは、その種の退化を防ぎ、環境に適合した在り様を実現して種の発展的展開をもたらすことになる。こうして生まれた動植物がそれぞれ地球環境の変化に対応して生成・消滅を繰り返す中から、現状にほぼ等しい自然環境の下で動物の一種としての人類が誕生したと考えられている。
 (2) 人間の登場とその特性―心の在り様
 人間(ホモサピエンス)は、肉体的な生存能力の弱さと引き換えに大容量の大脳を持った群生活する動物として誕生した。
 この人間の特性は、他の動物と比較して大脳容量が大きいことによって明確な「こころ」を持つに至ったということにある。一般的には、「こころ」は感情と意志と知性という3つの特性から成り、その全体が「こころ」であるとされている。しかし、近年の神経心理学においては、「こころ」とは、行動を直接制御する神経過程に対して、神経過程から創発し、共存する心理過程の総体であると捉えられている。
 山鳥重氏は、「こころ」には感情と心像と意志という3つの側面があるとし、感情は、意識されないこころの活動であるコア感情を元にして情動性、感覚性の感情があり、心像は、知らないことを想像する力で、感覚性、超感覚性の心像及び語心像があり、意志は、感情・心像を制御し秩序立てる働きをするとしている。そして、コア感情が「こころ」の基層(芯)を作っており、その上に情動性や感覚性感情の層が立ち上がり、その上に感覚性心像や超感覚性心像の層が立ち上がり、それらの経験をまとめて語心像の層が生み出され、語心像を繰ることで意識的に思ったり、考えたりすることができるという構造であるとしている。一般的に「こころ」の特性の一つとされている知性に関しては、からだと世界をそれぞれ感情と心像として経験し、からだと世界の関係を知り、からだを環境に適応させるという働きが「こころ」にはあり、この働きが広い意味の「知性」であるとしている。また、知性は知る力で、心像を語心像として「知り直す」働きをし、さらに思い、考え、思いを関係づけ、秩序立て、体系化する力、想像力であるとも述べている。
 しかし、「感情・心像・意志」も、「知性」や「感情・意志・知性」と同様に「こころ」の原基的な側面から生成された上位階梯の側面として、解明・説明される側面であると考えられる。
 「こころ」は、その原基的な側面として、釈迦仏教において世界の構成要素とされている「五蘊(色、受、想、行、識)」の内の「行蘊」、「想蘊」、「識蘊」という3つの性質・特質を備えているという捉え方が至当である。
 「行蘊(サンスカーラ)」は、能動的に「何かを為そうとする」能力、「意欲能」であり、「想蘊(サムジャナ)」は、知らない対象を「何であるか想像する」能力、「想像能」であり、「識蘊(ヴィジュニャーナ)」は、「何々であると知り分ける」能力、「識別能」である。
 行蘊=意欲能は、原初的には、生命体の維持に必要な欠乏を満たすべく本能的に感知信号に対応して神経過程(行動)を発動させる能力であり、生命体として存在するために欠かすことのできない能力であった。この原初的な意欲能としての在り様から、その能力を基底としてその上に、心理過程を自ら気づく働きとしての意識の成立に伴って対象と目的を明確にした「意志」を発揮するように展開される。即ち、「識蘊」の働きで知識が成立し蓄積するとともに、意識が成立して自他識別を生じ、自己意識が登場するのに伴って明確な「意志能」としての側面が成立することで「意志」が登場する。また、「識蘊」でさらに自己意識に基づいた価値基準が成立することで、新たな認識対象に対して自己の価値基準に照らして、例えば好ましいかその逆か、同調できるかその逆か、対応不可能かその逆か、予測できないことかその逆か等々に応じて「行蘊」が喜びと悲しみ、信頼と嫌悪、恐れと怒り、驚きと予期・期待等々の反応を呈し、それが「感情」として登場する。そうして、これらの「意志」や「感情」が頭脳運動野を制御するようになって意識的な行動が実行される。
 想蘊=想像能は、原初的には、感覚信号に反応して本能的に神経過程が作動して、この機能が明確に発揮されることはなく、機能自体が未熟であったが、やがて生命体としての機能の高度化に対応して対象が何であるかを特定する必要性が生じるのに伴って対象のイメージ・心像を思い浮かべる心像形成機能が徐々に発揮されるようになり、まず感覚信号に基づいて感覚性の心像が形成されるようになり、引き続いて「識蘊」が機能するようになると、その働きによって意識や知識が成立するのに伴って、超感覚性心像や語心像を形成するようになった。さらに、より広く新たな語心像や知識に基づいて相互の新たな関係を構想し、創造する「創造能」を発揮するようになっている。
 識蘊=識別能は、種々の対象を既に知られているものとあるいは相互に関係づけて位置付け、秩序付けをすることで意味を明らかにする機能である。この機能は、「想蘊」との相互関係の中で機能し、それによって感覚性心像を弁別・蓄積し、それに基づいて「想蘊」で超感覚性心像が、さらには語心像が形成され、それらが「識蘊」でさらに相互に識別されて知識として記憶・蓄積されることで知識蔵が形成される。ここで、知識蔵とは、秩序立て意味付けされた知識を、必要時に取り出して使用または利用可能な状態で記憶または蓄蔵されている状態にあるものを意味する。また、知識蔵の形成に伴って自己ということが識別されるようになって明確な自己意識が形成されると共に自己にとっての価値基準が成立する。さらに、それらが「想蘊」の創造能と連携することで「知性」が登場する。
 かくして、伝統的に「こころ」の3側面とされている「知性・感情・意志」は、「行蘊」「想蘊」「識蘊」という「こころ」の3側面が機能展開することによって生成された、「こころ」における上位階梯の3つの側面として理解される。即ち、「知性」は、「識蘊」における自己意識と知識蔵が「想蘊」の創造能と結合して登場し、「感情」は、「想蘊」で認識された新たな認識対象に対して「行蘊」が「識蘊」の自己意識を参照して示す反応として登場し、「意志」は、「行蘊」の意欲能が「識蘊」における自己意識と知識蔵と結合して、特定された対象に対する自己の明確な意志として登場してくるものである。
 (3)  社会システムと世界観の展開
 人間は、このような特性の「こころ」を持つものとして、自然界の中で行動し生存して行く中で、共同体や社会を作り出すというように、逐次より複雑・高度な社会システムとその運営に必要な知識蔵を構築し、またその社会システムの存立を観念的に支え正当化する世界観や思想を生み出し、文化や文明を作り出して行くことになる。
 社会システムとは、人と人の関係であるが、その関係が安定して継続することで関係自体が自存するかの様な様相を呈し、人がその関係の項に位置付けられ関係を担う役割を果たすようになる。このような関係の総体が社会システムである。社会システムが複雑化し、高度に有機的な組織になるのに伴って、その中に使用される知識が社会的に分野化されて蓄蔵されて社会システムの知識蔵が形成され、それに伴って人間の「こころ」の知識蔵も社会システムとの関係性に基づいて連動して高度化し、それと共に想像力も広範に広がり、感情の豊かさや高度な知性が形成されて行くことになる。
 順を追って説明すると、人間は群れの中で共同連携して作業を行ってしか生存することができず、その共同作業の中で大脳の発達した人間は道具を作り共用して作業するようになり、さらに各種の道具を作り出して道具類とそれらを用いた作業を体系化する。その結果、人間は各種対象に対する意識と共同作業における人間相互の関係から共同意識を持つようになり、その結果無意識で無自覚な群れであったものが共同体となった。
 共同体とは、共同関係にあることを意識している人々の群であり、群が共同体として一旦成立すると、それに相即して人間は共同体の一分枝としての関係に自己を位置づけて生活するようになり、共同体と自己との関係が主たる関係となる。共同体には、共同体を代表し、その運営を主導する首長が選ばれるが、共同体構成員の一人であることを超えるものではない。共同体の構成員にとっての世界の在り様は共同体とその外部世界である。こうした世界観の段階では、恩恵又は害悪をもたらす外部世界に対して思慮が及ばないことからそこに原始的な神を想念して畏敬を持つことになり、その神に対して祈念し、神の声を聞く霊媒者又はシャマンが主催する原始的な宗教が登場する。
 このような共同体の生産活動が農耕を主要とするようになって農産物や余暇に生産した手工品など交換可能な物財が出現すると、自ずから私的所有が進展するとともに、共同体間の関係が意識され、共同体間での物財の交換、人の交流あるいは争い、共同体が占有する領域をめぐる争いなどの関係を生じ、その結果として逐次共同体を超えた地域社会が形成される。この地域社会においては、共同体を超えた権力機構を持つ王が支配する王国などの地域国家が登場する。
 王国においては、その領域に住む人々は王と王に従属して支える臣下と被支配民という関係に入り、それに伴って王による支配を支える社会システムとして、臣下を中心として役人で組織された統治組織、徴税組織、軍事組織などが逐次形成されて行き、それに伴って文字によって王による決定事項や命令などが記録・伝達され、さらに多様な知識が記録・保存されて社会的な知識蔵が形成されるようになって行き、複雑な社会システムに展開されて行くことになる。また、王は自らの支配権能を認める神を登場させ、世界はその神によって統御されているとする世界観が登場する。そして、その神に対して、国家と王が神の恩恵を受け、害悪を避け、より良い境遇で生まれ変われるように多様な祭祀を行って祈るという複雑化した宗教儀礼が登場し、社会システムの一環として神官が生まれる。なお、この段階でも、共同体組織はその機能を変容させつつも維持されたままでその上に地域国家が乗っている状態であり、共同体の持つ世界観と祭祀は、王の行う祭祀が優先されつつも維持されるのが通例である。
 なお、王国というのは一つの典型例であって、地域国家の形態はその地域の自然環境、生産物、歴史的経緯、生活様式などによって異なり、多様である。例えば、ギリシャのように、共同体における平等性の伝統が継承され、王国ではなく、市民の民主制という社会システムを採用した都市国家の例もある。都市国家アテナイでは、市民は私有財産のある土地所有者と商工業者によって構成されてその数倍の奴隷が存在するという社会システムが形成されている。こうした市民社会の中で、豊かなギリシャ文化が開花している。
 また、地域国家としての王国が展開する中で、地域間の産物・物財の流通が商品流通という形態で行われるようになり、それを専業的に行う大きな財力を持った商人が登場するとともに商業都市が生まれる。商業都市で生活する商人やその回りの人々は、共同体から抜け出ていて共同体の神や祭祀とは無縁であり、また地域国家を超えて活動することから地域国家の神にも馴染めない立場であり、自らの精神的な拠り所となる宗教を必要とするようになる。そこで生まれたのが、釈迦による初期仏教であり、地域国家の神を超えて普遍性を持った世界観を提示し、その世界観に則って生活することによって苦のない生き方ができると提唱し、商人階層に大いに受け入れられた。さらに、その教えを受け入れる国家の王も登場して隆盛を誇った。この仏教は、その後既に縷々説明したように、衆生済度のために超越的な仏を立てた大乗仏教に転変し、現代に至っている。
 次いで、地域国家が展開すると、その中から地域国家を大きく超えた帝国が登場する。帝国段階では、その広い領域での貨幣経済の展開によって生産・物流の大規模・広域化が進展し、それに伴って統治機構、植民地経営等の社会システムが高度に組織化された。また、豊かな生活を支える芸術・文化なども飛躍的に発展することになった。また、帝国段階になると、それに対応して各地の神々を超えた唯一の絶対的な神(ゴッド、アッラーなど)が登場し、この唯一神が世界を創造したとする世界観が了解され、この唯一神に帰依することによって、現世利益が得られ天国に生まれ変われると信じ、祈ることになった。この唯一神の世界は西洋世界及びアラブ世界で大きく展開している。
 一方、東洋世界では、その気候・地理条件と歴史・文化的な複合要因によって、内実は王国段階の諸国が並立した封建体制でありながら外形的には軍事的支配によって帝国が次々と現れる状態が繰り返されるという歴史を辿り、その世界観は王国段階と同様に天帝からの王権の受任思想と、秩序による統治を主題とした礼や徳を説く儒教思想との組み合わせが主流となった。それと共に、儒教思想とは逆に人為を排除した「無為自然」の「道」によって国家・社会が治まるという老荘思想も併存していた。荘子では、全ては相対的で、認識や分別といった人為が対立事項を生み出しているとし、「無」こそが、一切を含む「一」であり、真理(「道」)であり、有を生み出す根源であるとしている。さらに「無」は「有」に対して想念されるのでそれをも「無」とすることで、終局的「無限」を真理とし、それは有を包含するとして、仏教の「空」概念に近い世界観が提示され、中国では少なくとも唐代まではこの「無」概念に沿って仏教が理解され、受け入れられた。
 なお、儒教は12、13世紀の宋代になると朱熹が開いた朱子学の「理気説」という世界観を取り込んでいる。「理気説」は、すべての存在はガス状の粒子である「気」によって構成されており、人間を含め全てのものは「理」という原理・秩序のもとに存在しているとする。また、倫理として、人間の「性」は本来的に「理」に他ならず、「理」に従うことが「善」であるとし、天の「理」を存し、人欲を排することを求めている。
 唯一神の世界観を持った西洋世界は、ローマ帝国として隆盛を誇った後、その版図全体に権力を維持した教会とその支配下で地域を封建領主が支配する中世封建社会に移行し、唯一神の世界観はそのまま残した状態で基底的な構造が地縁社会となり、さらに地域毎に王が統治する王国へと展開して、そこでは王は神から統治権が授けられたとする王権神授説が登場し、その王国で地域的な循環型経済と文化を発展させ、その中で諸個人の自立心が芽生えてくる。
 その後、商業がさらに発展するのに伴って、封建的な地域経済が閉塞状況に陥って矛盾が顕在化すると共に、封建的な制度に縛られず、桎梏と見なす商人階層が力をもつようになって封建的な社会システムを乗り越えようとする文化運動(ルネサンス)がイタリア北部の都市国家に発生し、それを端緒にして人間・主体の解放と科学革命へと展開し、産業革命を経て工業製品の生産流通が基軸の近代的な産業社会へと移行する。この産業社会への移行に当たっては、商業資本が物財生産を主体とする産業資本に転化するとともに、土地と結び付いて生活し共同体によって保護されていた農民を、自らの労働力を商品として売る、即ち働いて賃金を得ることによって生活資料を得る労働者に転化し、社会システムの基軸が資本制的生産システムになって行った。
 この近代社会における世界観は、実体的な存在である主体(人間)と、同じく実体的な存在である外界の客体(物的対象世界)を対置させて理解し、主体は外界の客体を認識することができるとするものである。この世界観においては、主体の労働力によって、体系的に構築されている生産手段を介して客体の自然力を利用しながら客体を加工して主体の役に立つ物財を生産し、生産した物財を商品として広く流通させ、それを蓄積及び消費するという循環を拡大再生産することで、生産能力を高めると共に主体を豊かにし、世界を発展させて行くと認識される。実際、地球の隅々まで商品を流通させて世界中を文明化することになった。その功罪は、世界を現実的に一つの世界に向かわせ、科学技術とそれを取り巻く学術・文化を飛躍的に発展させる一方、市場の主導権確保競争から世界的な対立構造を形成し、人類を滅亡させる可能性さえ孕む戦争を常態化させたことである。
 また、主体と客体から成るという世界観から、主体たる人間、具体的には労働者を含めてすべての人間には神によって生まれながらにして基本的人権が与えられているという天賦人権説が、王国における王権神授説に取って代わって登場し、人々が自然状態から社会契約を結んで国家を成立させているとし、民主主義的統治原理が合理化されることになった。
一方、それまでの唯一神の世界観は、現実的な世界とは別次元の精神世界に関わるものとして限定されて生き残り、現実的な物的世界と精神的な霊的世界の二元論の世界観となり、その時々に応じて使い分けられるようになった。
 現代、特に未来に向かいつつある現代においては、近代から現代にかけての物財拡大生産の経済システムによって地球環境が影響を受け、このままの体制を維持したままで拡大して行くと、人類の生存に適した地球環境を維持できず、生存を危うくする恐れのあることが明白になった。このことから、人間は自然の内部にその一部として存在していること、即ち自然内存在であるということを単なる理論的な知識としてではなく、現実的な問題として了解せざるを得ないことになり、それは延いては外部世界を客体として捉え、それに主体を対置するという世界観が成り立たないことが示されたと言える。
 また、その一方で、物財生産システムの展開の結果として産業構造に変化を生じ、物財(商品)の生産流通から情報の生産処理流通が鍵産業となる情報社会に移行して行くことが明白になってきたことから、ここでも客観的な実在とされていた物財の価値というものは実体を持っていず、価値とは社会的な関係性を担った情報であるということ、価格はその必要性の程度を社会的に比較衡量し、通貨発行量を基底的な条件として数値表現された情報であることが明らかになって来ている。
 また、世界中が情報通信網によって繋がり、ありとあらゆる情報が瞬時に世界中に伝わり、世界が一体的に結びついていることが現実的に明らかになって来ている。その一方で、そうした中でも現状は移行期であることから、情報格差が大きくありかつその格差による影響は極めて重大であり、その結果幾多の問題状況を生み出している。
 (4)  具象相の概要
 世界の在り様、その社会システムが、以上のように展開形成されてきたことを確認して、次に、最初に提示した抽象相から引き続いて、現代の世界の在り様の全体像、その具象相を概略的に見て置くことにする。
 まず、世界の基底的な在り様として、宇宙とあらゆる物質の存在自体が縁起と言う在り様をしており、固定的な実体というものではなく非固定的であるが、安定的な相互の関係によって成立しており、人間もその世界を構成する部分として存在している。かくて、人間は世界を構成する一部として世界そのものである。このことは、現代に至って人間の生活を賄うために行われる産業活動が地球環境に影響を与え、人類の生存環境を毀損する恐れが現実的になったことによって、人間は世界の全体が関係し合って成立し繋がり合っている世界の一部として存在しているということを直接的に思い知ることになり、観念や理念に止まらず、現実的な世界の在り様であることが了解させられたと言える。
 また、人間はその存在態様における関係性に基づいてこの世界を認識できるのであり、認識主体が客体として存在している「ものごと」を認識するということではないことも確認させられたと言える。「ものごと」を認識するということは、高度に体系化された「ものごと」の一つの在り様として認識能力を持った人間が存在し、この人間という認識主観が、自らの関係の全体を基盤にして特定の「ものごと」との関係を意識し、その関係を検証することで「ものごと」の在り様を確認して措定するということである。その際に具体的には認識主観の所属する社会が有している認識手段の体系を通して行うことになる。その認識の在り様は、前に述べたように、関係項としての要素の意味のある纏まりである「ものごと」に名称を付けることで概念的に認識するということである。また、認識の客観性とは、社会的に共有している認識体系の全体に適合しているか否かということであり、絶対的な客観性というようなものがあるわけではない。さらに、認識は認識主観とその対象との関係の認識であるが、それが社会において承認された場合には、その認識がその対象を認識された対象として存在させることになる。なお、認識されない対象というのは論理矛盾であり、その存否は不知(知ったことでない)であってそれを論じることは無意味な戯論である。
 以上の確認を行った上で、次に世界の在り様の具象相を、摂食、交合、生業という3つの側面から見てみることにする。
 まず、動物としての人類が存続するための根本的な条件である摂食について見る。摂食は人間が生きるのに必要な条件であり、社会システムが存立する基礎である。
 現代では、食物を直接採取・捕獲することは極めて少なくなり、社会システムを通して商品購入という形態で入手するのが一般的である。具体的には、専門業者が専業的に各種食品の生産を行い、生産物を商品として商品流通システムに送り出し、消費者が購入・入手して調理することになり、さらに業者が多様な調理食品や料理にして販売し、それを購入することが多くなっており、その食品をそれぞれの地域の文化に則して種々の食器を使用し、所定の作法に基づいて摂食するという形態を取るようになっている。
 言うまでもないことであるが、例えば農業・漁業・畜産業などの生鮮食品の生産者においてさえも、作業を行う空間を構築する建設設備業者、各種作業用の機械装置工具の製造業者、それらの機器を制御する制御機器の製造業者、それらを動かす動力源である燃料を供給する海外の産油業者、燃料や海外産の食料品などを輸入する輸入商社、電力を供給する電力会社、それらの間での情報流通を担う情報通信業者、病気治療・害虫駆除・防疫などを行う薬品製造業者や治療機関や保健機関、種苗業者、遺伝子組み換えを含めて動植物の品種改良を行う研究機関、そこに基礎的な研究を行って提供する大学などの基礎研究機関など、世界中のあらゆる分野や地域に繋がっている関係に基づいて生産が行われている。さらに、その食品の流通業者、調理加工業者、調理提供業者においても同様に関連する業者や機関との関係に基づくとともに、さらに地域文化や伝統などの文化的な要因が重なり、それぞれの関連機関との関係に基づいてサービスが提供されている。
 このように摂食という生命を直接的に維持する本来動物的で原始的な行為に関しても、現代においては、世界全体の隅々にまでわたって多重多層にかつ有機的に一体的に連携された関係から成る一つの大きな纏まりとして在る社会システムによって実現しており、個々の人間がそれぞれこのような社会システムと一体的に関係付けられて存在しているということが確認される。それと同時に、食文化は一つの纏まりとしてある社会システムに連携していることによって均一化してしまうのではなく、逆に各地域の多彩な食材・食品の組み合わせ、食文化の交流から、新たに多彩な食材・食品が開発されて多様化が格段に進み、豊かな食文化が創造されて行くことになる。
 次に、同じく人類が存続するための根本的な条件である交合と育児について見る。現代社会においても人類の存続のために交合は当然のことながら肯定・推奨されるが、現代社会においては世界の在り様としての社会システムに適合した形態で行われることになる。
 そもそも、雌雄の交合によって子孫を残すということは、多様性を持った子孫を残すことが可能となるということであり、それによって単純再生の繰り返しによる退化を回避すること及び環境変化に対応して種を存続させることができるということにあった。人類が登場した時代にはこの交合によって生物学的に多様性を実現することはそのまま人類にとっての世界の在り様が多様性を持つことであり、現代においても生物学的な多様性の実現ということを保持することは当然であり、さらに現代では世界的に人の移動交流が普遍化すると共に人種差別禁止が普遍的な価値となったことで生物学的には多様性が一層実現されていると言える。
 しかし、その一方で現代においては、世界の在り様が社会システムによって規定されるようになっており、そのため多様性が求められる主たる対象は社会システム自体の在り様になっている。従って、現代社会においては、多様性を包含・活用する社会システムを実現して、社会システムの展開発展を推進し、人類の存続発展を実現することが要請されている。社会システムにおける多様性は人類の存続を保証するのであり、そうしないと人類にとっての世界が閉塞し、幾多の弊害をもたらしつつ衰退を余儀なくされることになる。
 現代における実際の在り様を見てみる。人類はその当初においては交合の結果生まれた子供を育てる安定した育児環境として、多くは母系の家族を生み出したが、その後色々と段階はあるが、私的に所有される財産が登場し、それと相俟って男女間の分業が固定化されたことによって、財産を安定して相続する制度として男性が家長として統括する家族制度が確立され、それを前提にした結婚制度が生まれ、それに則って結婚して交合し生まれた子を育児することが倫理として強く求められるようになった。近代国家では、それが国民を直接的に把握管理する戸籍制度によって強固に固定化されることになった。
 しかし、このような財産の安定した相続を目的として凝り固まった家族制度の維持は、現代においては人々の多様な生き方に対して桎梏となって来ている。これは、現代社会は物財生産・商品流通システムを基幹システムとする社会から情報処理流通システムを基幹システムとする社会に移行しつつあることに対応して、男女が平等に活躍できる場を増やして行く社会環境が整ってきたこととも相俟って人々の活動形態が多様化して来ており、そうした中で子供を安定して育てることができる多様な家族制度が必須となってきたことによるものである。情報技術の発展と社会の情報化が多様な家族制度の実現性を担保している。こうして社会システムの一分野を構成している家族制度においても多様性を持つことが必須となっている。
 現代では、家族(ファミリー)の定義は、広く愛を紐帯として生活を共にする家庭(ホーム)を形成する同伴者(カップル)を基体とするもので、その愛情のある家庭環境の中で、両者の交合によって生まれた嫡出子か否かに関わらず、養子とした子を含めて、愛の結晶又は愛を体現するものとして迎え入れたこどもを養育し、社会に送り出すという機能を持っている社会システムの構成単位である、とするのが適切であろう。現代は、このような多様な家族の在り様を包摂する家族制度と、その下で発生する共稼ぎ家庭や片親家庭などにおいてもこどもを安定して養育できるように社会的に支援する、保育や就学前教育や学童保育などの社会システムの形成・充実が求められておりかつそれが可能となっている。
 次に、人類存続の基本的な活動で、人間が生きて行く上での主たる活動である生業について見てみる。この場合も摂食で見たように、人類が登場した当時は摂食に直結した食物の採取捕獲の活動が生業であったが、現代では生業は社会システムの運用を担うこと、社会システムの一分枝を構成しているものとしてその機能を果たす活動を行うことを意味するようになっている。そして、社会システムの機能は多岐にわたるとともに、上に見たように各分枝においてそれぞれに多様性を持つことが必須であることから、その活動を行う人々の在り様においても多様性が求められるようになっている。このことは生業以外の活動についても同様である。
 以上に見たように、現代の世界は、日常生活・経済・政治・教育・学術・その他各種文化などのあらゆる分野が有機的に連携した社会システムが成立しており、その政治、経済、文化等の各々の分野の社会システムはそれぞれ多様性のあるサブシステムが相互に多層多元に連携し合って編成されており、社会システムの全体が多様な一つの纏まりとしてある。社会システムが有機的な相互連携によって一つの纏まりとして存在することで多様性は存立可能であり、社会システムはその多様性の故に一つの纏まりとして存在しながら退化・衰退せずに発展して行くことになる。現代の世界は、このような社会システムを通して自然と関係しているという構造になっている。
 その社会システムの多様性は、まさに多様な特性を有する人間によって担われることで機能している。多様な特性を持つ人間は、多様な社会システムの中で育まれてその特性を開花させ、さらに社会システムの多様化を押し進めて行き、そうして多様な人類文化を発展させて行くことなる。すべての人間は元々それぞれに固有の特性を備えている。その意味は、生物学的な人間の設計図であるDNAは全人類を個別に識別できる情報を持っていて全く同じ人間というものは存在しないというだけでなく、DNAに含まれている遺伝子・遺伝情報(たんぱく質の設計図)が例え同一であったとしても、全く同じ人間になるわけではなく、それらの遺伝子が発現するしないや発現の態様が、偶然的な要素の高い環境等の各種条件とそれが作用するタイミングによって決定され、生物学的にもそれぞれ個性・特性をもつた人間となるということである。さらに、特性は可能性として潜在的に存在し、人間の実践・訓練がその潜在していた特性を目覚めさせ、活性化して発現させるということであり、特性が特徴・特長として顕現することになる。また、特性があるということは、例えば常人では不可能な天才的な能力・才能を発揮したり、さらに極端な例として障害を持ちながらピアニストや書道家や画家等として人々が驚くような天才的な能力や才能を発揮する特性というようなものに限るものではない。そのような才能は、その人の特性の一部がたまたまそういうものであったということであり、そういう才能がないから特性がないということではない。例えば、視覚障害を持っているということも個性の一つの特性であって、見えないということによって他の感覚が鋭くなり、その特性と能力は条件の整った社会システムの中で生かされて人々の多様な能力開発に寄与する可能性があり、多様な社会システムの実現に寄与できる。また、普通に健常者という範疇に一括されていても、様々な知的・精神能力や身体的能力に関して個々に得手不得手があって全体として各人それぞれに固有の特性を形作っている。社会システムの中で自分が思い描くように活躍できていないからと言って自分には社会システムに寄与できるような特性がないということではなく、自らの特性を開花させる条件が偶々整っていず、現状の社会システムの条件下では発現・開花させることができていない特性であるという可能性がある。このような場合でも、現に社会システムの一端を担って日々活動して生活しているということは、自らの特性を十全では無いにしても生かしているということであり、さらに望ましくは、潜在している特性を開花させることを意欲して新たな関係の構築を模索することである。要するに、人々は多様な特性を保有しており、それを見出して開花させる努力が望まれ、かつそれができる多様な社会システムを形成し、多様な文化を発展させることが豊かになることであり、それが人類の目指す方向である。
 以上のように、地球全体で一つの有機的な纏まりとしてありながら、多様性を内包しているこの社会システムの在り様が、現代においては世界の在り様の中枢的な位置を占めており、かつその社会システムは人類がその時々の必要性に対応して構成し漸次更新・展開してきた経緯と同様に、絶えず更新されて行くことになる。すなわち、人々がそれぞれ社会システムのサブシステムの一端を担って活動することで社会システムが機能的に存続し、それと同時に社会システムは安定的に機能するために固定化した制度として形成される一方、社会の現状を完全に捉えたシステムを形成することは不可能、かつ社会の状況は絶えず転変することから、必然的に解決すべき課題が発生して社会システムに揺らぎを生じ、人々がその課題解決のために新たに諸関係を形成して行くことになる。かくして、社会システムは絶えず新たなシステム形態を成立させて行くという在り様をし、その結果常に多様に継起する「縁起」という在り様をすることになる。
 現代を生きる人間は、このような社会システムの在り様の中で生き・活動することで人間となり、人間として存在しているのである。かくして、人間はその社会システムにおける自己の在り様を参究し、それを自覚し、あるべき方向を模索し、展開させるように生きることを自らの在り様そのものとすることを目指すことになる。その際、世界中の人々が一つの纏まりとしてある社会システムを共に担っているので、自己と相互に関係ある若しくは関係を形成しようとする他者とが各々の特性を生かすような関係を取り結んで行くことになる。
 世界の在り様のこれ以上乃至はこれ以外の具象相の参究については、さらに具体的で個別的な条件、あるいは別の視点に基づいて個別に行う必要があるが、今後三行を実践する中で充実されて行くものと考えている。