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普勧坐禅儀
 『普勧坐禅儀』は、道元が宋から帰国した1227年に、坐禅を主体にした正しい仏法を日本に広く知らせるために最初に著した著述で、その後に著した『弁道話』、『現成公案』とともに、道元初期の最も重要な著述の一つである。表題は、「あまねく勧める坐禅のこと」ということである。
 構成は、全体を13段落に分節したとき、第1段落~第3段落が序分(導入部)、第4段落~第8段落が正宗分(本論部)、第9段落~第13段落が功徳と流布の勧めを記した流通分(結論部)となっている。
 序分では、まず仏法は普遍的に行き渡っていて目前にあるとし、従って本来は修行など必要でないが、分別知で理解しようとするなど僅かでも取違いがあると真実を知る道を塞いでしまうとする。その上で釈迦や達磨も坐禅によって悟りを開いたのであり、今の我々は悟りを得たいなら分別知によって理解しようとせず、自身の心の働きを見つめて本来のありのままの自己を現前させる坐禅を始めることであるとする。
 正宗分では、坐禅は静かな場所で行うこと、意識面ではまず日常生活との関わりを打ち捨ててすべてを忘れ去り、次に善悪や是非など価値判断をやめ、さらに意識の働きや思慮・思考をも停止すること、そして仏になろうともしないことを確認した後、坐り方の身体技法として、坐蒲を使用し、結跏趺坐又は半跏趺坐を組み、法界定印を結び、目は常に開き鼻から微呼吸して身体の態勢を整えることを述べ、坐禅中は分別智による思量をせず、思量に非ざる心の働きを活用する、それが坐禅の要術であるとする。坐禅は習禅ではなく、安楽の法門であり、真実を究め尽くした修証であり、障碍や拘束なく公案が現成し、正法が自ずから現前するとしている。最後に坐禅から起つときには、ゆっくり立ち上がることを注記している。
 流通分では、かつて聖俗を超えた世界に入ったり坐禅したまま亡くなったりした傑物がいたが、その力は坐禅から生まれたものであるとし、また弟子を導くのに用いられた指竿針などの様々な方法の働きは、神通修証の知るところで、知見の及ぶような真理ではないとする。しかして仏法の世界では、上智・下愚や利人・鈍者を選別せず、一心に坐禅することが弁道であるとする。この仏法が世界中に直々に伝えられ、坐禅を専らにしてきており、他所をうろつき回る必要などないとし、既に身に備わった立派な働きがある一方、肉体も生命も短い時間に消えて無くなるから空しく月日を過ごしてはならないとする。最後に、坐禅修行する人々に対して偽物の仏法を習って本物の仏法を怪しむことなく、端的に直指される坐禅の道に精進するように求め、坐禅に専念した生活を送れば、心の宝蔵が自然に開いて自由自在に使うことができるようになるとしている。
 注目される点は、第7段落で、坐禅は真実を究め尽くしている修証(修証一等)の状態にあり、それを公按が現成している状態として捉えている点が注目される。すなわち、ここに『正法眼蔵』巻1「現成公案」の表題の意味が道元自身によって示されていると言え、「現成公案」はその内容を在家信者に対して説示したものであると言える。
 ここでの説明は、sets.ne.jpと大谷哲夫訳注『小参・法語・普勧坐禅儀』 講談社学術文庫を参考にした。
  
仏・仏性
 大乗仏教の中には、仏に帰依して悟ることで成仏することができ、そうすると真の自己に覚醒して神通力と呼ばれる本来持っていた能力を取り戻すことができるとする宗派があるが、現代釈迦道では、このような成仏は有り得ず、それを求めることは強く排除する。
 一方、大乗仏教においては、超越的で普遍的な存在としての仏を立てるとは言え、キリスト教などの一神教におけるゴッド(神)とは異なっている。ゴッドは世界の外に立った絶対的な主体として、客体としての世界を創造するものであるが、仏は世界の外に立てられているのではなく、仏は世界そのものとして内的な関係で捉えられる傾向が強く、そうでない場合でも、仏を外に立てながら実はそれは世界の内実であるとされ、仏と世界が一体的なものとして認識されている。仏がこのように捉えられていることから、衆生であっても本来的には仏性を具えているという如来蔵の考え方も自然に生まれてきたと言え、それによって大乗仏教における修行の易行化が論拠づけられていると言える。更に、これを突き詰めて行けば、世界そのものが、仏という名目が無くても、仏を捨象若しくは脱仏しても、それ自体として有為に存在すると言うことが可能になる。
 なお、大乗仏教における「仏」の定立を、仏は衆生済度のために方便として立てられたと逆方向から見ることもでき、現代においてはその見方の方が正鵠を射ていると思われる。仏が方便を使って衆生を済度するのではなく、仏の存在が方便であり、方便として仏が存在するとし、その仏の慈悲によって正しく生きていれば成仏できるとして衆生を世界の在り様に調和した生き方に導くことを指向したものと言える。

弁道話
 『弁道話』は、『普観坐禅儀』に続いて、道元が宋から帰国4年後の1231年に懐奨を中心とする近習の弟子たちに坐禅の何たるかを説示したもので、 『正法眼蔵』巻1「現成公案」の2年前の著述である。
 全体構成は、総論部分と、問答体(18問答)の各論部分と、この文の作成意図を記した総括部分から成っている。総論部分では、端坐参禅を菩提を証する妙術として提示し、次に自身の求道過程を記し、宋で獲得した禅理解(只管打坐と身心脱落)を提示している。以下、項目分けして説明して行く。
 a. 主題
 坐禅によって証悟する。証悟とは、自受用三昧に安坐しその境涯に遊化することである。かくして坐禅は安楽の法門である。
 b. 坐禅によって何故証悟できるのか
 まず、仏とは、最高・絶対普遍の菩提(真実の智慧)を証している証悟の境涯につねに住持しているもの(存在)として捉えられ、また誰にでも、菩提の正しい種子が豊かに備わっていると捉えられている。
 その上で証悟の境涯に至る最上無為の妙術は自受用三昧であるとされている。自受用とは、菩提の正しい種子を自ら受け取り活用して菩提を受け止め、菩提を活用して無拘束・自由自在・融通無碍に動きまわることであり、三昧とは、動揺を離脱し超越してその状態に遊化することである。
 この自受用三昧の法は人々の分上に豊かに備わっていてその三昧に遊化するには端坐参禅が正門であり、修によって現われ、証せられるとしている。すなわち、坐禅によって本来の自己(本来の面目、あるがままの自己) を取り戻すことによって、本来の自己が自ら持っている菩提の正しい種子(仏性)を受け止めて活用することで証悟することができるとしている。
 この仏法(如来の正法)は、本来自分に在り、かつもとより不思議の大功徳を備えているので、誰でも正信(正しい信仰)に基づいて坐禅修行すれば、等しく得道して安楽の境地を了解、通達することができる。ここに坐禅弁道の大本の大切な趣旨が示されている。諸仏の位置する場面は不可思議であり、心による認識が及ぶことのできるものではなく、信仰心によって得られるものであるとしている。なお、証悟を得るか得ないかは修行する者が自然に知ることである。
 因みに、我々に最高の菩提が欠如しているのではなく、永久に受け取っているのであるが、それを正当に受け止めて使用することができずに、むやみに知的見解を起こすことが習慣になっていて、そのような見解によって作り上げたものを本当に在るものだと思っており、それが障害となって本来の自己を取り戻すのを阻害しているのである。分別・別け隔ての境涯では、知覚(分別知に基づく知識や見解・思考)が相対的な固定化に陥り、本来の居場所である絶対普遍の場面が明らかに見えるようにならない。証悟できるのは、別け隔ての境涯の外においてである。
 c. 坐禅でどうすることで証悟できるのか。
 善知識(有力な指導者)に修行の仕方・規則を尋ねて、ひたすら坐禅の修行に励むことである。生かじりの知識や中途半端な理解を心に持ち続けてはならない。経典の教えが明らかにしていることは、如来が頓漸の修行によって必ず証悟が得られることを訓示したということであって、思考や念慮による忖度を働かせて菩提(正しい真実の智慧)を得ることを示しているのではない。
 仏印(仏の悟りの真実)に依拠して万事を投げ捨て、ひたすら坐禅(只管打坐)するとき、・・固定化に陥っている境涯の外において、自受用三昧に安坐することができる。
 身口意に仏印を持ち三昧の状態で坐禅するとき、坐禅は仏法の正門であり、その功徳は自受用三昧に安坐することである。
 雑然とした穢れた知識・見解・思考を断ち切って、汚染されず、わだかまりのない真実の仏法を証し立てることで会得することができる。「経典」の教えの通り修行すれば証悟を得られるが、思考や念慮による忖度を働かせて菩提を得ることはない。
 人知では測り得ない大きな働きの力が備わっている仏・如来の正しい法を正しく信じて修行すれば、区別なく道を得ることができる。修さなければ、現われ・証せられず、証さなければ得ることはない。
 坐禅において修証は一等である。証悟は修行を離れて有り得ず、修行は証悟の境涯において(あるがままの自己、仏性として)行うものである。証は修上の証としてあるから証悟に際限はなく、修は証上の修としてあるから修にはじめ(修が証に先行する)はない。
 また、証悟を、手段としての修行から得られる結果とする作為的な捉え方に汚染されてはならない。修行がそのまま証悟を指しており、修行の心得として、修行のほかに証悟を期待する気持ちがあってはならない。尤も修、証というものがないわけではないが、目的・手段という染汚した見方をしてはならないということである。この点で、坐禅は三学や六波羅蜜の禅定と同列に語るべきでない。
 なお、修行が徹底・成就に至らなくても学んで仏種の原因になる。
 d. その他留意点
 焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、只管打坐することによって身心脱落(固定化から脱出し、解放された何物にも縛られない、自由自在・融通無碍な本来の在り方への落着) する。
 仏の教えに優れた趣旨があるとしても、見ることに執着している眼の前には顕現し難い。
 坐禅は、「諸仏の自受用三昧に安らかに坐っている」ということであり、坐禅は諸仏の三昧であり、最高の偉大な法である。それを否定することは心が汚染し、酔った状態にあるためで、大乗を謗しる罪となる。
 「即身是仏」について、自己によって自己を求めて、仏法が本来自分に在ることを知り・理解することによって十分道を得ることができるというのは間違いである。自己が仏法であると領解することが仏法を知ったことにはならない。
 在俗はどうすれば諸縁を離れて専一に修行できるか。こころざしの有無による。仏法は一切の衆生を証悟に入らせる。
 「持戒梵行」は、禅門の規矩・規範、仏祖の家風である。
 読経・念仏などの修行は、三昧心を起こすことができるようにしてやるためである。
 「心」の本性が常住であるということを知るべきという立場(邪見)からの、「安閑と坐禅して一生を過ごしてどうする」という意見に対して、「心の本性」という捉え方は、相対的に固定化された別け隔ての見解であり、そうではなくて「身心一如」、「性相不二(本性と様相を別け隔てせず)」である。生死は涅槃であり、すべて常住であり、すべて弁別を超越した普遍的な在り方をしている。
 e. 注目点
 注目される点は、総論部分の最後に「今教える功夫弁道は、証上に万法を在らしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかわらんや。」という記述が見られることである。
 この部分の現代語訳に伴う解釈は色々為されているが、「今ここで教える精進すべき仏道修行は、証悟の場面(証上)に世界の在り様(万法)を在らしめ、証悟の場面から現実世界に出路してその真実の在り様(一如)を実践する(行ずる)ことである。この証上と出路の間の関門を超えるとき証上と出路の区分けは関わりがない。」と解するのが適切であると思われる。
 別の注目点は、「現成公案」において「現成」するとされている「万法」という概念が登場して、「証上」に「万法」を在らしめるとしている点である。「現成公案」では「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」とし、自存する自己が外部世界の在り様を修証しようとするのは迷いであるとして否定し、証悟の場面に在らしめた万法の方から自己を修証するのが悟りであるとしている。両者を合わせて証悟と万法と自己の関係の一面が理解される。
 さらに注目される点が、「証上」と対の「出路」において「一如」を行ずるとしている点である。「現成公案」では、万法が現成して証悟することで止まっているのに対して、ここでは出路して真実を実践すること、すなわち所謂菩薩道が提示されて積極的に位置づけられていることであり、禅宗や道元禅では唯一である。
 f. まとめとコメント
 分別知以前の汚れのない、本来のあるがままの自己は、認識の及ばない不思議の大功徳力を持つ仏性を備えており、乃至はあるがままの自己は仏性としてあり、染汚である分別知に基づく知識・見解・思考・念慮を断ち切って、仏性、その智慧を正しく信じることによって自ずから仏性の功徳力が作用して自受用三昧の境涯に入り、証悟する。これが『弁道話』そして道元禅の要諦である。
 即ち、思慮の及ばない、超越的な功徳力を持つ仏性が普遍的にかつ誰にもあることを前提として、坐禅して思慮(=染汚と断定)を断ち切れば、即ち不思量によりその仏性を受け取って証悟できて自由自在な境涯が得られるとしている。
 しかし、これは現実世界に対する一切の認識・知識・思慮等を遮断した不思量の世界で超越的な仏性を信じることによって証悟することができ、そこで自由自在な境涯に入るということであり、極論すれば、坐禅の中で現実を超越した妄想の世界に入って、そこで自由自在な境涯であると思い込むという状態を繰り返すことで、思い込みと現実の境界が消失し、思い込みを「妄想と現実を超越して現にあるもの」と了解するに至ったと理解するしかない。坐禅は現実世界から遮断された叢林で行うことが推奨されるのも宜なるかなと考えられる。しかし、衆生は現実世界の中で日々生活しており、叢林で坐禅三昧で生涯生きて行くということは、結局衆生の汚れた生活に寄生して清浄に生きていくという矛盾を犯していると言える。
 なお、原文の現代語理解については、森本和夫著、『『正法眼蔵』読解』10 (ちくま学芸文庫、2005年)を参考にした。

菩薩
 大乗仏教における衆生済度の要点は、仏(如来)がその慈悲により、種々の境涯・性格に応じ、種々の方便(手だて)をもって無量の衆生に教えを広く示されているということにある。そして、釈迦仏教では如来に成るべく約束して修行を行っている者という意味であった菩薩が、如来の慈悲の担い手として改めて登場することになる。
 まず『般若経』において、菩薩が彼岸に至るために行う修行として、六波羅蜜、すなわち「布施」―分け与えること、「持戒」―身を慎み戒律を守ること、「忍辱」―困難を耐え忍ぶこと、「精進」―たゆまず努力すること、「禅定」―心を集中して安定させること、「慧」―真理を見極め真理によって判断・処理すること即ち般若波羅蜜(智慧の完成)、が挙げられることになった。ここで、前の五つは最後の「慧」を成就するための階梯であるとされている。また、龍樹は、前の二つを利他、中間の二つを自利、後の二つを解脱というカテゴリーに分ける見方を示している。
 その後、唯識論や『華厳経』では、般若波羅蜜から派生したものとして四つの波羅蜜、すなわち「方便」―智慧を導き出す手段を得ること、「願」―智慧を求めようとする願いを持つこと、「力」―善を行い、真偽を判別する力を養うこと、「智」―究極的な働きを持った智を得ること、が加えられて十波羅蜜とされている。これは内容的な必然性というより、「十」の項目にするということが先にあって為されたものと言えそうである。
 かくして、大乗仏教では、菩薩の修行に衆生を済度すること、衆生を悟りに向けて導くことが組み込まれたのである。
 また、菩薩による衆生済度の要点としては、パーリ経典経蔵長部『三十二相経』などで述べられ、道元の『正法眼蔵』の「菩提薩埵四摂法」巻で説明されているように、「方便によって、四摂法にて衆生に接して皆に正覚(サムボーディ=三菩提)を志求させる。」ということが示されている。その四摂法とは、布施(分かち合うこと)、愛語(やさしく語り掛けること)、利他(相手を利すること)、同時(平等に接すること)である。が、その事自体は社会生活での対人関係で普通に心がけることが望まれる事柄である。
 一方、衆生にとって菩薩とは、本来の悟りに導くというよりも、現世利益を中心としてあらゆる願いを聞いてもらえる存在として信仰の対象となっているというのが実情であり、仏教というよりも、仏教で言う外道の信仰、ただの俗物の信仰でしかないというのが現実である。
 また、僧に関して、大乗仏教において如来―菩薩―衆生という関係が成立した中で、僧は、生きている人間でありつつ、菩薩の機能の担い手として衆生に接するというように位置づけられることになったと言える。そのため、僧に対しては、専業的に修行を行う体制が保持され、僧であるためには少なくとも一定期間所定の修行を修めることが要求されているが通例である。
 ところが、超越的な仏が立てられていることで、仏の慈悲を受けて済度されるように衆生を導く担い手であるべき僧が、仏の権威を笠に着て上から目線で衆生を指導する一方、衆生の方はその指導に専ら一心に依存するという関係の下に、上下関係、時に専横的とも見られる上下関係が構築される可能性が出てくる。その可能性が現実的なものになる条件として、寺院に本山―末寺という支配秩序が形成されるとともに、それと相関して相補的に僧に位階・身分差が形成されているということがあり、その末端に衆生を位置付けることから生じることである。宗派によっては仏教ではあり得ない筈の身分差が、死後の世界の戒名に引き継がれている。

マインドフルネス
 瞑想の一種で、瞑想とヨガ(その呼吸法)を組み合わせたプログラムで思考をコントロールすることで、心を穏やかに、マインドフルネスにするというもので、ストレスが原因の体調不良を改善する効果が得られるとする。
 具体的には、目を閉じ呼吸を感じながら瞑想することで、余計なことを考えず、「今・このとき」に集中している心の状態、心理状態を目指すものである。それにより、ストレスの原因である評価や不安と切り離した世界で「ものごと」を観察し、とらわれを飛び越えたところに気持ちを持って行くことで動じない心が育まれるというものである。

瞑想 meditation, contemplation
 普通名詞としては、熟考する、観ずる、と言う意味であるが、ここでは心を整えるために行われる「瞑想」を対象とする。
 静坐・瞑想の風習は、インダス文明の神像に見られるように、インドで古くからあり、非常に長い伝統がある。
 行法として現在行われている瞑想は、目を閉じて静かに考え、思いに耽ることによって、眼前の世界を離れ、ひたすら何かに心を集中して無心になることで、心を鎮め整える効果が得られるというものである。

ヨーガ
 ヨーガは、インドで古く(インダス文明)からあった坐相(静坐・瞑想)の風習から展開されたものである。
 BC6C乃至4,5C頃に成立した『カタ・ウパニシャッド』は、バラモン(アーリア人)の「ヴェーダ」に反発して作られた『ウパニシャッド』の一つで、物語形式の神学・哲学書である。『ウパニシャッド』は基本的に「梵(ブラフマン)我(アートマン)一如」、「輪廻・業と解脱」を主題としたものである。『カタ・ウパニシャッド』では、分かり易い物語の中で、アートマンはその五感をコントロールして欲望を離れて初めて永久不滅のブラフマンと一体になれると説かれ、ヨーガによって欲望を離れ、心の結び目がほどかれるとき、アートマンが不死性を持つことができると説かれ、ヨーガの意義づけが為されている。
 3~5C、仏教の瑜伽行唯識派を大成した世親と同時代には、正統バラモン教一派の「ヨーガ修行による解脱」を説いた経典『ヨーガ・スートラ(瑜伽経)』(詳細は別項)がパタンジャリによって編纂された。
 『ヨーガ・スートラ』においては、人間存在を苦とみてヨーガによってそこから離脱することを目指している。物質原理の根本原質 (プラクリティ)と純粋な精神原理の真我 (プルシャ)という、世界を構成する二つの原理の両者を混同して結合していることが苦の根本的な原因であり、その混同・結合を生じさせる力となっているのが心の働きであり、心の働きをスローダウンさせて止滅するためにヨーガの実修が必要であるとされている。心の働きを止めた時、真我 (プルシャ)の本来の姿が心に映し出され、真我(プルシャ)を認識して根本原質 (プラクリティ)と真我 (プルシャ)の根源的な関係を断ち、両者を別々に安定した状態に戻すことができ、かくして根本原質 (プラクリティ)を構成する性質要素(グナ)に対する渇望から解放され、苦から離脱できるとしている。
 その後10~13Cに「ハタ・ヨーガ」が成立し、16C頃に『ハタ・ヨーガ・プラディーピカ』において体系的に説かれた。現代に見られる多くのヨガはそこから派生したもので、それらの元祖である。
 「ハタ」は力、強さを意味し、「ハタ・ヨーガ」とは体を動かすヨーガの意味であるが、教義的には太陽(ハ)と月(タ)、陽と陰、精神性と生命力のように対として存在するもの同士を結び付けて調和させる意味に解されている。「ハタ・ヨーガ」は、多様に展開され、心統一・精神集中によって超自然的な力を得る修行法であるとされることがある一方、より高い瞑想に至るための準備段階であるされて、身体を鍛錬し、浄化する段階と位置付けされることもある。一般的には、肉体的なアーサナ(ポーズ)とプラナヤーマ(呼吸法)に重点を置いており、それによって心をリラックスさせ、精神面のバランスをコントロールして整え、ストレスによる自律神経の乱れやバランスを整える効果が得られるとされている。
 さらに、現在は、○○ヨガとして、身体と心の鍛錬、肉体的・精神的な健康保持、体質改善、肉体的・精神的な疲労回復、病気の予防、美容等々、多くの分野に対象を広げ、多彩に展開されているが、それぞれ終局的な原理・原典として『ヨーガ・スートラ』が挙げられることが多い。

ヨーガ・スートラ
 『ヨーガ・スートラ』は、「ヨーガ」の項で見たように、瑜伽行唯識派と同じ時代にそれに対抗してパタンジャリによって編纂されたもので、謂わば瑜伽行真我派の経典とも言えるものである。元々口伝の短い詩文から成る195の節から成り、第1章 三昧部門(サマーディ・パダ)、第2章 実修部門(サーダナ・パダ)、第3章 成就部門(ヴィブーティ・パダ)、第4章 独存部門(カイヴァリア・パダ)の4章構成となっている。
 その世界観は、真我(プルシャ)と根本原質(プラクリティ)によって世界が構成されているとしている。真我(プルシャ)は、純粋な精神原理を体現した実在であり、観るものとしての存在で、観る性質があるのみであり、常に純粋でありながら、観る対象の色を帯びる(染色される)と捉えられている。根本原質(プラクリティ)は、物質原理の実在で、その原理により世界の物質的なものが生じたとされている。観られるものとしての存在で、観るもの(真我・プルシャ)が経験し、解放されるために存在しているとされている。
 根本原質(プラクリティ)は性質要素(グナ)によって成り立っている。なお、物質的要素と感覚器官から成るという捉え方もされる。性質要素(グナ)とは、①タマス(不活発、惰性)、②ラジャス(動き、エネルギー、変化)、③サットヴァ(知、純性、調和、バランス)という3つの性質要素の総称である。この3つのグナが五大元素(空、風、火、水、地)と結びつき、構造や機能を提供し、3つのグナの配分によって性質が変わるとされている。
 さらに、この世界の上に、自在神(イーシュヴァラ)という神が存在しているとし、自在神とは宇宙意識であり、至上の魂であるとしている。この自在神を示す語が「オーム」である。
 心(チッタ)は、真我(プルシャ)によって常に認識されているもので、常に真我のために存在し、真我とともに活動するとされ、真我の像を映し出すことによって真我に気づくとされている。その心には、①正しい認識(直接的認識、推論、信頼すべき権威(聖典)の言葉)、②誤った認識(本性に基づかない虚偽の認識)、③言葉に基づく概念化(実体を欠く認識)、④睡眠、⑤記憶の5種の働きがある。
 ヨーガとは、心の働きを止めることであり、その時真我(プルシャ)が自らの本然の形態に留まる。なお、その他の場合真我は心の働きと同一化している。ヨーガによる内的修練(心を一つの対象への集中状態に留め置き、心の散動を防ぐ不断の努力)と無執着によって心の働きを静止することができ、それによって真我(プルシャ)の認識、即ち識別知(ヴィヴェーカ・キャーティヒ)を得ることができる。識別知とは、真我(プルシャ)と根本原質(プラクリティ)を識別する知であり、ヨーガの実践で導き出されるものである。最高位の識別知は、さらに知ろうとする欲求、遠ざけようとする欲求、新しいものを得ようとする欲求、何かをしたいという欲求、悲しみ、恐怖、妄想の七層の欲求や妄想から解放する。真我(プルシャ)の認識によってグナへの渇望から解放され、清澄で均衡した状態となる。また、知る者・知られるもの・知の間の境界がなくなり、3つがそれとして合一する。ヨーガの最終到達目標は、真我(プルシャ)の独存(カイヴァリア)、即ち真我(プルシャ)が根本原質(プラクリティ)との結合を消失した状態になることであり、その状態では苦は消滅する。最高位の識別知と独存とは、同一の状態を認識面と実存面からそれぞれ示したものと考えられる。
 ヨーガの実修において、障害となるのは、①無知、②我想、③愛着、④憎悪、⑤生への執着の五つ煩悩である。これらの煩悩は苦の原因でもある。①無知は、永遠、純粋、苦と楽、真我(プルシャ)の誤認。識別知の欠如である。②我想は、真我(プルシャ)、即ち観る者と「体と心」、即ち観る道具との同一視に基づく「私」という感覚である。③愛着は、快楽の上に住まい、快楽に耽ることで増長する。④憎悪は、苦痛の上に住まい、苦痛から逃れたいと思うことで増長する。⑤生への執着は、肉体的な生命に依存することによる。
 これらの障害は、潜在状態のときは根本的な原因に回帰させることで破壊し、心の作用・散動として現れているときは瞑想によって破壊することができる。
 ヨーガを実修するヨーガ八部門(アシュタンガ・ヨーガ)として、①禁戒、②勧戒、③坐法、④調息、⑤制感、⑥集中、⑦瞑想、⑧三昧が提示されており、これらを実修して行くことが本道である。
 ①禁戒(ヤマ)は、普遍的に適用される大いなる誓いとしての自己抑制事項で、具体的には、(1)非暴力 (アヒンサー)、(2)正直 (サティヤ)、(3)不盗 (アステーヤ)、(4)ブラフマンに則った生活 (ブラフマチャルヤ)、(5)非所有 (アパリグラフ)の五つである。
 ②勧戒(ニヤマ)は、実修に向かう前向きな尊守事項で、具体的には(1)清浄、(2)知足、(3)苦行、(4)自己学習、(5)自在神への祈念の五つである。(1)清浄(シャウチャ)から、グナの一つサットヴァ(純質)の清浄、一点集中、感覚器官の統御、真我(プルシャ)を見る力が生まれる。(2)知足(サントーシャ)は、「足る」を知ることで、そこから無上の幸福が得られる。(3)苦行(タパス)の実践と不浄の払拭から、身体と感覚器官の完成がもたらされる。(4)自己学習(スヴァーディヤーヤ)は、霊的な書物の研究、自己研鑽を行うことで、そこから自らの守護神との結合が生じる。(5)自在神への祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)は、「オーム」を繰り返し唱え、自在神に完全な献身を行うことで、それによって全ての障害が消え、真我(プルシャ)に関する知が湧きあがり、三昧(サマーディ)の境地に到達するとしている。
 これらの勧戒(ニヤマ)の内、(3)苦行、(4)自己学習、(5)自在神への祈念を、実践ヨーガ(クリヤーヨーガ)と言い、三昧への道筋を示し、苦の原因を弱めるとされており、八部門を経て三昧に至る本道に対して間道と言えるものである。
 ③坐法(アーサナ)は、安定し快適であるべきで、それは努力を緩和して、無限なるものを瞑想することで達成される。すると、両極の猛攻に晒されなくなる。
 ④調息(プラーナーヤーマ)は、坐法が仕上がった後に、呼吸を統御することである。息を外に吐き、内に吸い込む、留めるなどの種類があり、場所、時間、回数、長短が調整される。息を外に吐き、息を保持することが心を鎮める。
 ⑤制感(プラティヤーハーラ)は、感覚器官が対象に結びつくことを無くし、心の本来の状態それ自体が働くような形をとることであり、そこで感覚器官に対する最高の統制力が生じる。
 ⑥集中(ダーラナー)は、心を特定の対象に留め置き、集中させた状態である。
 ⑦瞑想(ディヤーナ)は、集中対象への途切れない認識の流れができている状態である。
 ⑧三昧(サマーディ)は、一切の外的なものへの気づきが排除され、瞑想対象だけが意識されている瞑想の状態であり、瞑想の最高点である。さらに、その対象が全ての形態を失ったかのようになり、その意味・本質だけが映し出される瞑想状態に至る。
 この三昧(サマーディ)には、次のような段階区分があるとしている。まず、論理的思考、継続的思考、喜悦、「私」という感覚という「想念」を伴った状態の有想三昧と、「想念」が消えた状態の無想三昧の段階、次いで、言葉と意味、知識、それらを基盤にして作られた概念が入り混じった「論理」を伴った状態の有尋三昧と、意識が空のようになって言葉なく意味だけが輝き出て「論理」を超えている無尋三昧の段階、次に微細因潜在力(サンスカーラ)に対する「反射」を伴った状態の有伺三昧と、微細因潜在力(サンスカーラ)に対する反射を超えている状態の無伺三昧の段階があり、以上は有種子三昧の段階である。最後に、思考を超えた無垢清浄の三昧状態となって有種子三昧が終わると、全てが静止する状態となり、そこでは、英知は普遍的真理で満たされる。その英知は伝承・推論に基づく知識、特定の対象に限定された知識とは別ものである。この状態で生み出される微細因潜在力(サンスカーラ)はそれ以前の一切のサンスカーラを隔絶する。この状態をさらに超越した状態が無種子三昧の段階である。種子は焼き尽くされ、通常の意識に戻る可能性はない。根本原質(プラクリティ)を構成する三種の性質(グナ)の遊戯は終わり、プラクリティに還元結合する。かくしてグナがプラクリティの本源に戻ると、真我(プルシャ)には認識すべき対象がなくなり、独存(カイヴァリア)が現れる。真我(プルシャ)が純粋意識として確立されたということである。
 また、この段階は、法雲三昧としても捉えられる。それは、完全な識別によって最上級の結果に対しても無関心となり、揺るがない識別知を持ち続ける状態が法雲三昧である。これによって全ての苦・業(カルマ、行為と結果)が終結する。このとき根本原質(プラクリティ)を構成する三種の性質要素(グナ)は目的を果たして転変の流れを終える。かくして、無上なる独存(カイヴァリア)が成る。グナはもはやプルシャに仕える目的を持たず、元の非顕現状態に還入される、あるいは純粋意識の力がその本来の姿に帰着する。
 一方、ヨーガの八部門の⑥集中、⑦瞑想、⑧三昧の三者をまとめて、綜制(サンヤマ)として捉えることも提示されている。これは、独存(カイヴァリア)に至る本道に対してその側道とも言えるものである。
 この綜制の三部門は、他の部門に対比して内的であるが、無種子三昧に対比すれば外的であるとしている。この綜制は三昧のそれぞれの段階において適用され、綜制が達成されると英知の光が現れるとし、さらに様々な対象に対してこの綜制(サンヤマ)を行うことで超能力(シッディ)が得られるとしている。
 例えば、サンスカーラにサンヤマを施してサンスカーラを直接知覚することによって前世について知ることができ、また自らの姿にサンヤマを施すことで相手の目と自らの体からの光が結びつかなくなって姿が見えなくなり、象などの力にサンヤマを施すことでその対象に応じた力を得ることができ、心と真我(プルシャ)の違いにサンヤマを施すことで真我(プルシャ)に関する輝かしい知(プラティバー)が得られ、それによって超自然的な感覚(聴、触、視、味、嗅)・超能力(シッディー)が得られ、身体と空間 (エーテル)との結びつきにサンヤマを施して軽い綿毛に合一させることで空間を行くことができる、等々、論外の展開が示されている。ただし、これらすべての超能力に対して無執着であることによって、束縛の種は破壊され、カイヴァリア(独存)の状態が得られるとも示されている。

輪廻
 輪廻(輪廻転生)は、BC7,6C、バラモン教の時代に生まれた思想で、生き物はその業(カルマ・行為)によって、五道(五趣)、即ち天界、人間、畜生、餓鬼、地獄の五つの世界の何れかに転生するということ、この脱出不可能な苦しみを永遠に繰り返すという思想である。人間は肉体と霊魂から出来ていて、物質である肉体は滅びるが、物質でない霊魂は永久不滅で、肉体が滅びるまでの業(カルマ)によって次に生きる世界と肉体が決まると考えられており、人間が死ぬと、その肉体は大地に還り、霊魂は天界にのぼり、生前の業により五段階のレベルに分類されて五道の何れかに転生し、再び肉体が滅びるまでその境涯から抜け出すことはできないという考え方である。
 なお、この五道の考えが現世の社会階級(四姓(カースト)制度)を正当化する思想的背景ともなっている。
 この輪廻思想はその前提的な世界観として、世界は人間の本質であるアートマン(我)(霊魂とも捉えられる)と、宇宙の原理(この世界にある全てのものは互いにつながり合った同一の存在である)であるブラフマン(梵)とから成ると考えている。ブラフマン(梵・宇宙我)は、アートマン(我・個人我)の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数のアートマン(個人我)として現れるものとされている。そうして、この真理を知覚することによって輪廻の業、一切の苦悩を逃れて解脱に達することができると考えられている。すなわち、バラモン教においても輪廻を脱する唯一の方法があり、それはブラフマンとアートマンが一体になること、宇宙と自我の一致、梵我一如の悟りを開くことである。この梵我一如に到達する手段として瞑想が行われた。瞑想の中では、意識集中によって分別による知を乗り越えて対象が直観され、対象そのものになり、ブラフマンとアートマンの本質が同一であることを知るとされている。
 この様に、輪廻は輪廻する当体であるアートマン(我)の存在を前提にしており、アートマンの存在を否定し、無我を主旨としている釈迦の教えとは本源的に相容れない考え方である。ところが、一般的には、釈迦の教え(釈迦仏教)を含めて仏教においては、この世を輪廻の世界として捉え、その上で悟りを開いて涅槃に到達することによって、輪廻を脱して二度とこの世に生まれ変わることはなくなると理解されている。あるいは、釈迦は輪廻と業を世界観の前提にしているとし、瞑想修行に励んで業のパワーを消して輪廻を止めることが釈迦仏教の本質であるとか、釈迦は業と輪廻といった、今の時代から受け入れることができない教えを説いたとまで述べ、その上に釈迦独自の「安楽の道」を構築したとされている。ただし、流石に中村元氏は、初期仏典における最古層の詩句には、業・輪廻の思想は明確には現れてこないことを指摘し、釈迦が積極的に輪廻を主張した形跡はないと述べている。ただ、業・輪廻の思想を反映した言説が見られないということではなく、例えば『スッタニパータ』第3章に濃厚に現れ、その第10経には嘘の報いとして落ちる地獄のありさまを詳しく説いた詩句が見られ、輪廻の思想が大衆教化に重要な役割を果たしていることが見て取れる。しかし、これは教えの第一義の目的と矛盾しない限りにおいてバラモン教に基づくその時代の社会通念を容認する立場を取ったことによる言説で、まさに「対機説法」としてなされたものであると考えられる。釈迦の教えの核心の一つは無我にあるから、アートマン(我)は存在せず、アートマンが永遠に転生して輪廻することなどあり得ないことである。ただ、縁起したものであり、無我である自己が、苦から脱する修行過程において必要とされる戒、例えば嘘をつかないなどの戒は、衆生が現世を生活して行く上で不幸に陥らないように導く上でも必要な事項であることから、バラモン教の世界観が染みついている衆生に対してその通念を容認して対機説法として説示したものと考えられる。
 なお、以上の「無我」であるから輪廻はあり得ないという見解に対して真逆の見解も見られる。即ち、「無我」でなければ輪廻転生は成り立たないというのが仏教の立場であるとし、輪廻の主体に「我(アートマン)」を想定した場合、永久に輪廻を脱することができない常住論に陥るというのである。これは、釈迦の教えは無我であり、その場合輪廻というものはあり得ないということを理解せず、「輪廻」なるものの存在を前提とした議論であり、その場合輪廻から解脱するには形式論理上、永久不変のアートマンで無い「無我」でなければならないというだけのことである。大乗仏教に典型的な、輪廻の世界を前提としその上に仏の世界を想定した世界観に基づく見解であり、その場合釈迦の教えにおける「無我」の概念は入り込む余地が無く、その意味で全く無関係である。
 釈迦仏教では、自己という存在を含めてあらゆる存在は縁起したものとしてあり、生も死も縁起する宇宙・世界の在り様そのものであり、そのような在り様をする自己やものごとを実体的なものと考え、それに執着することによって苦が生じるということであって、合理的・論理的で、輪廻及びそれを苦とするという考え方が成立する余地はない。そして、その苦から脱するには、ものごとに対して執着する煩悩を無くすことであり、正しい知に基づいた修行によって獲得した智慧によって煩悩を消尽・止滅することで、ニルヴァーナ(涅槃)、すなわち一切の煩悩から解脱して心の安らぎを得た、完全な静寂状態になることができるとされている。
 釈迦が入滅した後、大乗仏教が成立して行く過程において、『般若経』で新たな世界観とも言うべき「空」概念が提示され、龍樹はその「空」概念が釈迦の教えと矛盾しないものとして論理的に説明している。その『大智度論』で「善悪を分別するが故に六道(輪廻)がある」として「輪廻」の存在を否定し、「輪廻」などというものは観念的な思考によって作りだされた幻想・想念であり、存在しないとしている。
 ところが、大乗仏教においては、衆生の済度を前面に押し立てるとともに、釈迦仏教ではその存在を主張することがなかった、超越的な存在としての「仏」を定立し、それに伴って、衆生が生きている現実の世界は輪廻転生の世界、具体的にはバラモンの五道輪廻に阿修羅を加えて、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道輪廻の世界であると見なし、この六道輪廻の世界の上に仏の世界が存在するという世界観が提示されるようになった。そして、現実世界の六道輪廻の苦しみから抜け出すには、煩悩を無くして輪廻のエネルギーである業を消尽する修行を行うことが必要で、それによって輪廻を繰り返さない仏の世界に解脱することができると説かれるようになった。さらに、衆生の済度を前面に出す大乗仏教では、業を消尽して解脱するのに、厳しい修行による以外に、「空」の論理を理解することによって、日常の善行のエネルギーを解脱に向かうエネルギーに廻向することができるという都合の良い論理も提示される。なお、釈迦仏教では当然のことながら善行がもたらす果報は現世的で、現世利益にしかつながらない。
 釈迦仏教の縁起と無我の教えを踏襲し、「仏」の定立を拒絶し、その存在を否定する現代釈迦道の立場では、当然のことながら、輪廻などというものはあり得ないことである。大乗仏教は、独特に理解・解釈した釈迦の教えを生かしながら、衆生の済度を第一義としてその時代の衆生の現実的な在り様に照準を合わせることによって、衆生が生きて行く上で拠り所となる超越的な「仏」を定立するとともに、現実世界をバラモン教以来の輪廻の世界であると捉えてその上に「仏」の世界を位置付け、輪廻の世界から仏の世界への解脱を説くという形に展開されたものと言える。釈迦の教えの縁起の世界観や無我の意味を理解・体得して修行に専念し、苦からの解脱を実践することはその当時の衆生にとっては極めて困難で、そのままでは衆生の済度は不可能であるというのが現実であったと考えられる。釈迦自身も、悟りを開いた後その教えを広めることは、理解を得ることが困難であろうとして否定的であったという話からも伺うことができる。恐らくは、対機説法という便法を用いることに自ら納得することで教えを広め、衆生を善導するとともに解脱に至るサンガなどの修行システムを構築することにしたものと考えられる。一方、現代の衆生は教育があり、情報化社会の進展により簡単に広く情報を入手することができ、釈迦の教えを現代に適合した形で実践することが可能になっていると考えられる。

輪廻と解脱
 解脱とは、元々は輪廻から解放された状態のことである。「輪廻」とは、行為の連鎖、「業」の連鎖によって、「行業に即した果報がある」という業報思想に基づいた考え方で、釈迦仏教はその「輪廻」の存在を前提とした(釈迦はその存在を認めたというのでなく、人々が信じている事柄としての「輪廻」ということであろう)上で、「輪廻からの解脱」を説いた。しかし、龍樹は『大智度論』で「善悪を分別するが故に六道(輪廻)がある」として「輪廻」の存在を否定しており、基本的にはその通りで「輪廻」などというものは、存在せず、観念的な思考によって作りだされた幻想・想念である。
 仏教における解脱とは、特に正しい智慧によって煩悩を消尽・止滅して悟りの智慧(菩提)を完成した境地、また不生不滅の高い境地を意味し、それは完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるとされている。
 なお、解脱と並んで涅槃という概念がある。大般涅槃は釈迦の入滅を意味し、そのことから入滅した釈迦の在り様が涅槃を意味することになり、その結果、本来涅槃(ニルヴァーナ)と解脱とは同義であるが、入滅即ち死のニュアンスを含む傾向がある。
 また、成仏という概念も使用される。成仏とは、一般的には悟りを開いて真理・真如を会得・体得した覚者となることを意味し、解脱した者となることと同義である。しかし、釈迦仏教では仏とされるのは釈迦のみで、一般にはその境地に到達した人は阿羅漢と呼ばれる。
 現代釈迦道においては、脱仏して仏を立てないので、生きて成仏することや死後に成仏することを求めることはない。そして、結果として解脱の境地に到達することが目標にはなるが、解脱の境地まで到達することを必ずしも目標とするものではない。
 また、菩薩がその修行道によって求めるのは、仏陀の境地に到達すること即ち「成仏」することとされることがある。しかし、これも「仏」の捉え方次第という面がある。即ち、仏陀とは仏道の始祖である釈迦を意味するのか、信仰の対象としての超越的な存在としての仏を意味するのかという違いである。前者は、現代釈迦道における菩薩道の立場であり、結果として解脱の境地としての成仏を意味する。後者は、大乗仏教の立場で、菩薩はそのような超越的な存在としての仏になる成仏を求めている。但し、それは教義の建前上外せないだけであって、現実にそれが実現することがないことは分かった上で最終的な目標として掲げられている。